“過保護”は果たして悪なのか? 高畑充希主演ドラマ『過保護のカホコ』が描いた自主性の重要さ

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2017年09月14日 14:32  リアルサウンド

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「いまの若者は過保護に育って、常識がなっとらん!」


 度を超えて甘やかすことを意味する「過保護」という言葉は、70年代あたりから使われはじめたというが、それ以来、現在まで継続してこのようなセリフによって若者批判に利用されてきた。未熟な若者は「過保護による失敗作」として見られ、社会問題とされる場合もある。かつて過保護だとして同様の批判にさらされてきた者ですら、いつしか若者の現状を嘆くようになったりする。だが果たして、「過保護」は悪なのだろうか。『過保護のカホコ』は、そんな「過保護」を題材に、甘やかされて育てられた娘が奮闘するTVドラマだ。


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 NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主演を経て、今回、民放のTVドラマで初めての主演となった高畑充希(たかはた みつき)。彼女が演じる女子大生、カホコ(根本加穂子)は、黒木瞳と時任三郎が演じる両親に甘やかされ、過保護中の過保護として育つ。父親は“人間ATM”として、娘の電子マネーのカードに、求められるままお金をチャージし続け、母親は娘を車で送迎し、毎晩一緒に過去のホームビデオを眺めるほどの溺愛ぶりである。


 とくに母親は、愛情が高じ過ぎてしまうことで、就職の面接内容を細かく指示し、カホコが毎朝着る服まで選ぶように、娘のあらゆる選択について先回りして干渉してしまう。そんなふうに育てられたカホコは、なんでも母親に相談する自主性を失った人間として登場する。それを表現するような焦点の定まらない「虚無的な目」をする高畑充希の表情が素晴らしい。


 高畑充希は演技のために変な顔を見せたり不格好なポーズをとることを全く厭わないため、表情や身振りの幅がものすごく広く、目が離せなくなってしまう。この役に関しては、その特性がピッタリとフィットして、視聴者も思わずにやけてしまいそうな、娘としてのかわいさが発揮されている。そんなカホコに甘ったれた声で「お願いがあります」と言われたら、やはり全面的に甘やかさざるを得ないのが人情というものだろう。


 竹内涼真が演じているのが、カホコと同じ大学で学び、たくましく複数のアルバイトをしながらプロの画家を目指している麦野初(むぎの はじめ)だ。彼は、そんなカホコの過保護な現状を目の当たりにして「お前みたいな過保護がいるから日本はダメになるんだよ!」と苦労人の立場から意見する。それは過去何度となく言われてきた若者批判と同じものであろう。就職活動がうまくいかないことで、何のために働くのかも分からないと悩むカホコに、初は「働いたことのない奴に分かるはずがない」と、自分のバイトを手伝わせることにする。 この麦野初というキャラクターは、その名の通り、カホコに「初めて」の体験を与え、社会と出会わせていく役割が担わせられている。


 カホコは一度働いただけで、「人を幸せにするために働きたい」と、一発で人生の生きがいとなる大目標を見つけてしまう。決めゼリフとして毎回発せられる「こんなの初めて」という言葉は、カホコの社会経験のなさを表すとともに、初めて出会うからこそ純粋に世の中を眺めることができるという意味として心に響く。


 就職のためにカホコが『13歳のハローワーク』を読む場面があるが、その著者である村上龍が書いた、このような短編小説がある。地雷で脚を失った中東の国の人たちのために、国連がパラシュートで義足を空から落とすという映画を観た女性が、自分も義足を作って人を助けたいという夢を持つ。だが、「三十三歳で子持ちでバツイチで風俗で働く女が、地雷で足を失った人のために義足を作りたいと思うのは異常だ。だから誰にも言えなかった」と、その女性は述懐する。自分がしたいことをするというのは、本来はごく自然なことであるはずだが、ここでは社会の常識や従来の価値観が、そこから外れることを無言で阻害している空気を描いているのだ。


 「いまの若者は常識を知らない、マナーを知らない」と言われるが、そもそもそこで言われる「常識」というのは、本当に学び取るべき価値があるものなのだろうか。社会を円滑に機能するためには、ある程度の概念を共有することは必要だが、そのなかには理不尽なルールや、狭い環境のなかでの偏見、古くさい価値観が含まれていることも多い。カホコは“純粋培養”で育ったからこそ、そのようなものにとらわれず、新鮮な目で世界に対峙し、自分の心をまっすぐに見つめることができる。最終話での進路についての決断というのは、そのようなカホコの“過保護力”が発揮されることになる。


 本作のナレーションも務める、カホコの父親は、密かに家族・親戚を動物に例えているが、そのなかで最も巨大な“ゾウ”だとされているのが、三田佳子が演じる、カホコから“ばぁば”と呼ばれる母方の祖母・初代(はつよ)である。彼女は三人の娘を育て、家や家族たちを裏から支える、皆の精神的支柱となっている。


 三田佳子といえば、東映のスターであり、大河ドラマやCMでも活躍し、数え切れないほどの賞を獲得している、日本を代表する「大女優」の一人だ。なかでも強い印象を残すのは、『極道の妻たち 三代目姐』で演じた、日本最大の暴力団組長の妻の役だ。ヤクザは擬似的な家族関係を作り結束するため、彼女は「一万五千人の母親」というとんでもない役として登場し、「あんたも極道の妻(おんな)やったら、腹くくって物を言いや!」とすごむなど、それを引き受ける貫禄を見せていた。


 家を勘当されてまで、西岡徳馬が演じる“じぃじ”と結婚したという初代(はつよ)は、まさにそこから家族を作りスタートさせる「初代(しょだい)」として、家や家族を守り続けている。自分の体が病魔に蝕まれ長くないことを自覚すると、彼女はその役割を任せられるのはカホコしかいないと思うようになる。そして、「二代目」カホコに重責を受け渡す姿が、三田佳子というレジェンドのイメージによって、複数の意味合いを持たされた意味深い光景に見えるのだ。


 初代がカホコを二代目に襲名させるというのは、家族の誰かが困っているときに助け、奮闘するカホコの姿を見ていたからだ。カホコはたっぷりと愛情をかけられたからこそ、家族や他人にも愛情をかけようとするような優しい人間に育ったといえる。それが本作で描かれた“過保護力”なのだろう。


 本作は『女王の教室』、『家政婦のミタ』、『純と愛』など、刺激的な脚本を手がけてきた遊川和彦(ゆかわ かずひこ)の脚本作品でもある。生徒を追い詰め給食を与えなかったりする鬼教師や、求めに応じて殺人すら遂行しようとする家政婦など、これらの作品では、突拍子もないキャラクターを設定することで、それを逆に絶望的な現実社会に対抗するための突破口として描いていた。『過保護のカホコ』も、そのような極端なキャラクターの系譜に連なる存在だろう。


 そして今回も、開業資金の持ち逃げ、万引き行為への依存、アルコール依存症、覚せい剤問題など、現実社会のシリアスで絶望的な問題をとり上げ、一見幸せに見える家族が、内部で崩壊している様子を描いている。遊川和彦作品に共通するのは、このような厳しい現実であり、そのなかで自分らしさを失わず生きようという自主性の重要さである。カホコの家族は、カホコの奮闘に助けられ、踏み出せなかった一歩を踏み出し、それぞれが自分らしい生き方に目覚めていく。


 たしかに現実は厳しく冷たい。過保護の真逆の思想である「体罰」など、現在では法律違反となるスパルタ的教育が依然として根強く支持されている。その背景にあるのは、「迷惑をかけること」、「人と違うことをすること」が異常なまでに忌避され、また責め立てられるような日本の社会の状況である。そこに暮らしている者としては、そんな現実だったら、カホコやカホコの両親のように、人に過保護に接することも悪くないんじゃないか、いや、過保護くらいの社会がいいんじゃないかとすら思えてくるのである。(小野寺系)


※西岡徳馬の徳の字は旧字体が正式表記


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