ケンゴマツモトの『リュミエール!』評:最初が全部詰まっていて“ずっと観てられる”映画

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2017年12月27日 12:02  リアルサウンド

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 “映画の父”ルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が1895年から1905年の10年間に製作した1422本のうち108本で構成された映画『リュミエール!』。1895年12月28日パリ、リュミエール兄弟が発明した“シネマトグラフ”で撮影された映画『工場の出口』等が世界で初めて有料上映された。全長17m、幅35mmのフィルム、1本約50秒。本作には、4Kデジタルで修復された、現在の映画の原点ともなる演出や、移動撮影、トリック撮影、リメイクなど多くの撮影技術を駆使した作品が収められている。


参考:カンヌ国際映画祭総代表が語る、リュミエール兄弟の功績とカンヌにおける日本映画の重要性


 リアルサウンド映画部では今回、THE NOVEMBERSのケンゴマツモトに本作を鑑賞してもらい、その感想をじっくりと語ってもらった。ケンゴマツモトはTHE NOVEMBERSとして2016年9月に6枚目のアルバム『Hallelujah』を日本人第一弾作品としてMAGNIPH/HOSTESSから発表するなど、精力的に活動を続ける一方、園子温のポエトリーリーディングセッションや映画『ラブ&ピース』にも出演している。映画や絵画を観るのが大切な趣味のひとつだと語る彼にとって、『リュミエール!』はどのように映ったのか。


 僕は、映画をはじめ写真や絵画など芸術全般が好きなんですよね。それらに興味を持ったのは、読書や音楽が趣味のひとつだったからだと思います。幼い頃から本や音楽は身近にあったので、たぶんそれらに触れていくうちに徐々に派生していって、色んな芸術に興味を持っていったのかと思います。


 映画に関しては、特別こういうジャンルや雰囲気が好きだから観るとかではなく、面白そうだなと思ったものをまんべんなく観ていますね。わりと、旧作古い映画やモノクロフィルム、それとヨーロッパの映画、特にジャン=リュック・ゴダールやレオスカラックス等の作家が好きです。


 自分の好きな作品も、というか映画という表現のジャンルそのものがリュミエール兄弟が映画というものを作ったからこそあるんだなと思うと感慨深いです。そもそも、僕が『リュミエール!』に興味を持ったキッカケは、映画の始祖である「リュミエール兄弟」という人物の名前を元々知っていたのにも関わらず、ちゃんと彼らの作品を観たことがなかったからです。


 本作を観て、まず思ったのは、ここに収められている全長17m、幅35mmのフィルムで撮影された1本約50秒の映像の中に、映画という概念がすべて網羅されているということです。人がいて、カメラがあって、演出がある。映画の歴史が始まった瞬間から、基本的な部分が完結していることに驚きました。


 すごくコントラストがはっきりしていて、深いモノクロが綺麗なので、見惚れてしまいます。だからこそ、ちゃんと奥行きも感じられる。1分にも満たない短い時間の中で、しっかりと物語が紡がれているからなのか、122年も前の映像かつ固定カメラなのに、全く飽きない。


 フィルムや現像のテクニックが素晴らしく、また全体的にどこか気品溢れる美しさが漂っているので、モノクロ無声映画なのにも関わらず、まるでその時の喧騒が聴こえてくるような、光景が色鮮やかに蘇ってくるようなリアリズムがあります。フィルム自体が持っている麗しさや素晴らしさって絶対にあると思うんですいます。古ぼけてはいるけどジャンクなものではない。だから、ずっと観てられるのかなと。面白いですよね。完全なる無声映画なのに、あんなに興味深く観られるのが不思議で仕方ないです。大きな出来事が起きるわけではないのに、なぜだかずっと観ていられるんですよ。なんでなんでしょうね。今観ても、鑑賞に耐え得る画と言いますか、きっといつの時代に観ても感動する画なんだなと。どんなに時が経っても古臭さを感じさせないのは、そこに映画の根源的な魅力が詰まっているからなのではないでしょうかなのかと思います。


 言葉や理屈では説明できない、なぜだかわからないけど、どうしようもなく心惹かれる作品。まさにそれこそが、映画、ひいては芸術全般の醍醐味だと思うんです。そう思うと、リュミエール兄弟の作品は、まさに映画の原点なんだなと実感します。同時に、時代が変わろうと、彼らの持ち合わせている芸術的な感覚は、簡単に揺らぐものではないんだなと改めて感じました。


 『露営のダンス』は、映画史初の理解不能な作品と言うナレーションが入っていましたが、それ以前の作品もすべて理解はできないですよね(笑)。リュミエール兄弟が何を意図して撮ったのか、本当の意味を理解できるわけがないんですよ。


 ただ映画史という長い歴史がスタートした時点で、すでに100年後に生きる現在の僕たちも感じられる面白さが詰まっていたんだと思うと、すごいですよね。それだけの力がある表現が始祖だったからこそ、今日まで映画が生き残ってるのかもしれませんね。


 僕は、“ずっと観てられる”映画が好きなんですよ。映画を観る時には、もちろんストーリーや、好きな役者さんが出演しているか、どの監督は誰なのかの作品かなどにも着目しますが、たとえ内容がよくわからなくても、“観ていられる”映画なら好きだなと思えるんです。だから、鑑賞に耐えう得る画かどうかを最も重要視しているのかもしれません。僕は映画に限らず、感動するポイントが“画”にあるんだと思います。それは、音からイメージする画も然りなんですが。


 そういう意味では、リュミエール兄弟の作品は、そのポイントがしっかりと備わっているから、心を動かされました。特に一番初めに収録されている『工場の出口』は、インパクトがすごい。構図のダイナミックさに釘付けになりました。あれを観て、うわ……好きだなって思いましたね。とにかく画角が独特でいいんですよ。昔だからだと思うんですけど。めちゃくちゃかっこいい。こんな初期からピントが合っていることにも驚きます。


 フィルム自体が持っている麗しさや素晴らしさって絶対にあると思いますうんですよ。その特性が、あの時代から、ダイレクトかつふんだんに使用されていて、興奮しましたね。画としてすごく完成されてると言うか、古ぼけてはいるけどジャンクなものではない。だから、ずっと観てられるのかなとも思います。


 あとは、『赤ん坊の食事』もすごく強烈で印象に残っていますね。めちゃめちゃ模範的なフランスの朝食風景なのですが、あまりにオーソドックスすぎて、逆に記憶に残ると言いますか。赤ちゃんの食べこぼし具合にも、目がいってしまいました。『軽食をとる小さな子供たち』や『クレモー座(曲芸師)V.ピラミッド』もそうでしたが、彼らは映像の対象として、子どもを選ぶことが多かったみたいですね。演技を学んでいない、一般の子どもたちのはずなのに、カメラの映り方がよくわかっている感じや目を見張るような活躍っぷりが、不思議で仕方ないんですよね。もしかしたら、むちゃくちゃ人を選んでるかもしれないですねよ。『赤ん坊の食事』に出演している彼らも、実際のところは本当の家族かわからない(笑)。


 全108本の作品を観て思うのは、ルノアールをはじめとした絵画から影響されている部分もあるのかなと。たとえば、ビン。あれはたぶん演出として置かれていますよね。『赤ん坊の食事』にもビンが置いてありましたが、画として綺麗だからこそ、絶対に演出なのかなとだと思うんです。意図されていない演出であんな自然に映るなら、それこそすごいなと。道行く人たちのカメラに対する反応も然りですが。ただ、あれがリアルな姿だとしたら、当時でしかあり得ない反応ですよね。カメラというものに気づかないとか、不審な顔をしながら凝視するとか……そういう当時の人々の様子もまたこの作品の面白さですよね。


 でも結局、本作を鑑賞するにあたって、ここは演出なんじゃないか? とかこの構図はこういう理由で素晴らしい! とかいう見方はあまり重要ではない気がします。映画の知識なんてものは、持っていてもいなくてもどちらでもいいと思うんです。だって、面白く観れるっていうこと自体に驚きがあるから。そもそもここに収められている映画は原点で、作り手も観客も“映画”という概念すら知らない状態で、それでも楽しんでいた作品なんです。だから、映画をあまり観てない人を跳ね除ける作品では、決してないんですよ。むしろ、観ていない人の方が純粋に楽しめるのかもしれない。


 これが映画の始まりであることに感動します。まず、“最初”を目にする機会ってなかなかないと思うんですよ。最初の音楽は聴くことができないし、最初の絵も、最初の言語も、最初の本もそうです。映画はまだ若いし、現代の技術があるからこそ、できていますが。最初が全部詰まっているものって、僕の知る限り、『リュミエール!』以外にはないかもしれないですね。(取材・構成=戸塚安友奈/写真=石井達也)


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