石原さとみ、冷酷な計画を決行 『高嶺の花』裏切られた峯田和伸から見える“優しさと臆病さ”

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2018年08月16日 06:02  リアルサウンド

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 散々やり尽くされているダスティン・ホフマン主演の映画『卒業』のパロディーを、2018年に改めて見ると新鮮に映る。8月15日に放送されたドラマ『高嶺の花』は、もも(石原さとみ)と直人(峯田和伸)の結婚式の最中に、拓真(三浦貴大)が乗り込み、ももを連れ去るシーンで幕を閉じた。


参考:石原さとみ主演『高嶺の花』で大役に挑む、俳優・峯田和伸の武器を探る


 拓真と恋に落ちたことで、華道の後ろ生けに必要な“もう1人の自分を見る力”を失ったもも。前回の放送で、命と引き換えにももを産んだ母親の想いを知った彼女は、華道を続け、家元になる覚悟を決めた。そして今回、衰えた華道の才能を取り戻すため、ももは“罪悪感”を自分に植え付けようとする。


 アメリカの心理学者ジューン・P・タングニー氏は、罪悪感を便利な感情だと考えている。罪悪感というのは、自分が生み出した害を自ら修復させようとする力を持っているからだそう。つまり、ももは直人を裏切って傷つけた罪悪感を、家元になるモチベーションとして利用しようと試みたのだ。罪と向き合い、その重さに気付き、背負い続けることで、ももは家元への道のりを決して逃げ出すことのできない一本道に変えようとする。


 しかし、ももの計画には誤算があった。婚約破綻により、自分と同じように味覚や嗅覚を失うほどショックを受けるだろうと想定していた直人が、式場を後にするももに、なぜか微笑みかけたのだ。式の前に、ももの考えを知ったなな(芳根京子)が直人の家を訪れ、忠告に来たが、その時にはすでに直人はももの考えに気付いていた。それだけでなく、離婚して余計なバツを付けなくていいようにと婚姻届の回収まで済ませている。


 なぜ直人は、そこまでして結婚式を中止することなく、執り行ったのだろうか。必ず終わりが来るとわかっている愛に知らぬ顔で向き合うのは、並大抵の強さではできない。その理由はななに打ち明けた、「小さい頃からいつも、考えられる最悪のことを想定してしまうんです」の言葉に詰まっているような気がする。


 直人がすべてを受け入れるのは、心の奥底に根を張る揺るぎない臆病さが存在しているからだろう。愛があると言えど、結婚も恋も、相手は所詮他人。身内である父さえも突然失った直人の中には、大切な人というのはいなくなって当然という概念が出来上がっているように見えた。ただ厄介なのは本心ではなく、あまりにも耐え難い痛みの応急処置として脳に焼き付けてしまったことだ。


 去ってしまうからこそ、共に時間を過ごせる一瞬の中で、自分が提供できる最上級の愛で接したい。ももだけでなく、宗太(舘秀々輝)や商店街の人々の面倒を手厚くみる直人の人柄には、単なる優しさだけでなく、過去のトラウマへの臆病さも絡み合う複雑な事情が垣間見える。自分を踏み台にして他者を救う。「自己犠牲=愛なのか」というテーマは、長年議論され続けているが、直人のももに対する言動は間違いなく愛なしではできないもので、そんな深く刻まれた愛が、無残に散ってしまったのはあまりにも残念すぎる。


 振り返ってみると第6話では、それぞれの孤独に対する向き合い方が映し出されていたように感じられる。直人は上記でも述べているように孤独を恐れ、ももは他者を犠牲にしてまで自らの成長のために孤独を選択する。そして、これまで孤独を抱え続けてきた宗太は、同じく孤独を抱えるイルカさんこと坂東基樹(博多華丸)と共鳴し、お互いを支え合う。


 家柄、才能、なにもかもが違う人々が大勢登場する十人十色な本作だが、交わるはずのない人たちが意外なところで共通点や似た思想を持っている。次週からは第2章。格差なんて吹き飛ばす熱い愛を芽生えさせられる本作なのだから、この状況を逆転させて再びももが直人の愛に寄り掛かる姿を観たいと願ってしまう。(阿部桜子)


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