話題騒然のジャズ映画(?)『セッション』、絶対支持宣言!

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2015年04月17日 16:11  リアルサウンド

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 映画ファンはもちろんのこと、一部の音楽ファンの間でも公開前から話題騒然となっている映画『セッション』が、本日4月17日に公開された。名門音楽大学に入学したプロのジャズドラマーを目指す主人公が、伝説の鬼教師からパワハラまがいの激しい指導を受ける姿とその後の顛末を、緊張感に満ちた演出でスリリングに描いた本作。「話題騒然」の中身にはポジティブなものとネガティブなもの、二つの側面がある。


(参考:ジミ・ヘンドリックスはいかにして伝説となったか 映画『JIMI:栄光への軌跡』を観る


 世界最大のインディーズ作品の見本市であるサンダンス映画祭で上映され、グランプリと観客賞を同時受賞したのが昨年1月。それ以降、世界各国で80以上もの賞を受賞、公開規模を拡大しての大ヒット。その集大成となったのが、今年2月のアカデミー賞での助演男優賞(J・K・シモンズ)、編集賞、録音賞のトリプル受賞だった。事実として、本作は世界中で批評家の絶賛と観客の熱狂に包まれた。一方、アメリカを中心に公開当初から一部のジャズミュージシャン、及びジャズファンからは、本作に対して批判的な意見が多く寄せられていた。日本でも先日、ジャズミュージシャンの菊地成孔氏がブログにアップした『セッション』に対する酷評がネット上で大きな話題となったが、そもそも海外では“Whiplash Backlash”(本作の原題『Whiplash』をもじったもの。「ムチの跳ねっ返り」とでも訳せばいいだろうか)という言葉が生まれるほど、ジャズ界隈においては本作へのアンチを表明するオピニオンは蔓延していた。そして、皮肉なことにそうした批判も含めて様々な意見や感想が飛び交ったことが、この作品を一介のインディーズ作品から、アメリカやヨーロッパにおける昨年最大のサプライズヒット作にして、今年のアカデミー賞最大のダークホースにまで育て上げたとも言えるのだ(言うまでもなく、本稿の意図もそこにある)。


 近年ハリウッドで大きな話題になる映画といえばシリーズものか実話もの(今年のアカデミー作品賞ノミネート作のうち『アメリカン・スナイパー』『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』『グローリー/明日への行進』『博士と彼女のセオリー』と実に半分の4作品が実話ものだ)と相場が決まっているので感覚が麻痺してしまうのも無理はないかもしれないが、まず大前提として、本作『セッション』は何ら特定の史実とは関係のない、監督のデイミアン・チャゼル自身が手がけた脚本による完全なオリジナル作品である。その上で、これまで多くのジャズ関係者に批判されている点を大きく3つに分けると次のようなものになる。(1)名門音楽大学のトップクラスにあんなエキセントリックな教師はいないし、あんな授業方法もあり得ない。(2)音声ではミュートされたトランペットが鳴っているのに画面上の奏者のトランペットはオープン状態などなど、演奏シーンがいろいろとテキトーだ。(3)劇中に実名で出てくるチャーリー・パーカー、バディ・リッチ、ウィントン・マルサリスなどのジャズミュージシャンの位置付けやエピソードの解釈がテキトーだ。


 (1)に関しては「それがフィクションのおもしろさでしょう」と言うしかなく、(2)に関しても「ワイルドスピード」を観てあんな車の挙動はあり得ないとツッコミを入れることに近く、あくまでも映画的には見過ごしても構わない、というか積極的に見過ごしていいポイントだと思うが、(3)の、特に劇中で語られるチャーリー・パーカーのエピソードに関しては、本作の根っこにあるテーマとも関わってくるので解説が必要だろう。


 『セッション』でJ・K・シモンズ演じる教師がマイルズ・テラー演じる主人公に語るのは次のようなエピソードだ。「あのチャーリー・パーカーだって10代の頃、ジャム・セッションでヘマをやらかし、ドラマーのジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ、観客から笑われながらステージを降りた。その夜、彼は泣きながら寝たが、翌朝から来る日も来る日も練習に没頭した。もしあの時にシンバルを投げられてなかったら、我々の知っているのあの“バード”(チャーリー・パーカーの愛称)は生まれていない」。劇中では主人公の頭めがけてシンバルが飛んでくるけれど、実際はチャーリー・パーカーの足もとに投げられたとか、ジョー・ジョーンズの投げたシンバルは叱責を目的とするものではなく、これ以上パーカー少年に恥をかかせないためにリングサイドから投げ入れたタオルのようなものだったとか、そもそも評伝によるとチャーリー・パーカーはその後ふてくされて1ヶ月間練習しなかった(!)とか、本作におけるこのエピソードの扱い方に対してはあらゆる角度から事実との齟齬が指摘されている。しかし、「僕はいつも若きチャーリー・パーカーに興味があった」と語る監督デイミアン・チャゼルが、あのクリント・イーストウッドの『バード』でも描かれているこの有名なエピソードの詳細を知らないわけがない。つまり、ここでは意図的にエピソードの改竄、というかアレンジが行われているわけだ。どうしてそのようなアレンジが行われたのか? それは、デイミアン・チャゼルが本作で観客に最も「引っかかって」ほしいポイントがそこにあるからに他ならない。


 先述した教師の発言を思いっきり要約するなら「天才は圧倒的な努力の積み重ねによって生まれる」ということだ。本作の主人公はそれを信じて、文字通り手から血が流れるような猛練習に励むわけだが、それはそのまま高校生の頃にプロのジャズドラマーを目指してデイミアン・チャゼルの姿でもあった。本作で描かれている、魅力的なガールフレンドに対する主人公の驚くほど身勝手な振る舞いも、カタギの家庭の中で音楽というヤクザな道でプロを目指すことからくる孤立感や虚勢も、おそらくはデイミアン・チャゼルの実体験をかなり反映したものであるに違いない。ちなみに、デイミアンの父親は計算幾何学における世界的権威として知られるコンピューター科学者バーナード・チャゼル、現プリンストン大学教授。きっと同じ道に進んでどれだけ努力したとしても父親や家族を見返すことができないと若くして悟ったデイミアンは、『セッション』の主人公がそうであったように、音楽や映画というアート/エンターテインメントの世界へと逃げこんだのだろう。


 そう考えると、本作『セッション』全体を覆っているある種の毒っ気、不愉快さ、怒り、憤りの本質にあるものが見えてくる。本作が描いているのは、「圧倒的な努力の積み重ね」によって天才の領域に達することができると信じていた若き日の自分の愚かさへの悔恨であり、そんな自分の努力を裏切った音楽の世界に対する愛憎だ。その愛憎の「憎」の部分に過敏に反応したのが、本作のテーマを語る上でいわば道具として利用されたかたちとなったジャズの関係者たちだったと言えるのではないだろうか。そして、きっとプロのジャズミュージシャンたちの多くは、本作の主人公≒デイミアン・チャゼルが乗り越えられなかった努力と才能をめぐる堂々巡りの最初の壁を、容易くとまでは言わないまでも運命的に乗り越えてきたからこそ、現在プロとして生活ができているのだろう(興味深いことに本作は、自分の知る限り、海外でも日本でもジャズ以外のジャンルの多くのミュージシャンからは絶賛されている)。


 本作『セッション』はその壮絶なラストシーンとは別の意味で、ホラー映画(『ラストエクソシズム2 悪魔の寵愛』)の脚本で雇われライターなどをしながらこの脚本の映画化に奔走してきたデイミアン・チャゼル監督に、商業的成功と若き天才監督という名声のハッピーエンドをもたらすことになった。音楽の世界において報われなかった彼の圧倒的な努力は、映画の世界において大いに報われたのだ。「この映画の中で、僕は演奏のひとつひとつをカーチェイスや銀行強盗のような、生死を分ける闘いであるかのように撮影したかった」。そんなデイミアン・チャゼルの発言を踏まえるまでもなく、本作を「音楽映画」、ましてや「ジャズ映画」ととらえるのは矮小化に過ぎるだろう。その演出の切れ味と外連味は、アメリカ本国ではテレビ映画として放映された『激突!』で突然世界中の映画ファンから注目を浴びた、同じ20代の頃のスティーブン・スピルバーグを思い出させると言ったら少し褒めすぎだろうか。(宇野維正)



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