
『個人授業』(1973)、『恋のダイヤル6700』(1973)、『学園天国』(1974)…1970年代に数々の大ヒットを世に放ったフィンガー5。アメリカ統治下だった時代の沖縄から兄妹5人で本土に渡り、ポップな音楽性とダンスパフォーマンスでトップスターに駆けあがった日本芸能史における伝説的なグループだ。
【写真】再結成の可能性を問われ、フィンガー5の三男、玉元正男さんは「もう60歳過ぎだよ」と笑った
彼らの栄光の日々、そして活動停止の経緯は?フィンガー5の三男、玉元正男さんに訊くロングインタビューの後編。
実は解散していなかった
ーーフィンガー5は1976年2月、半年間のアメリカ留学を終えて帰国します。帰国後の活動の手ごたえはいかがでしたか?
正男:半年も日本を留守にしたら以前のようにはいかないだろうなと思ってましたが、その通りになりましたね。音楽面でも僕らが目指した"大人のフィンガー5"というのは受け入れられなかった。せっかくアメリカで本格的なレコーディングを体験できたのに、レコード会社の方針でまた子供向けの路線に戻ってしまいました。
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ーーアメリカ留学中に長男の一夫さんがマネジメントに徹するため脱退して、かわりに甥の実さんが加入していますね。ショックは大きくなかったですか?
正男:ショックというのはなかったですね。実はまだ小さかったけど、すでに大人の感覚になった僕たちの中に受け入れる形だからうまくやれると思っていました。その後、方向性を模索する中で実も脱退ということになってしまうんですが…。
ーー実さんが脱退後、フィンガー5は1978年6月に最後のシングル『悩ませないで』をリリースしています。解散はどのように決まったのでしょうか?
正男:報道では「解散」と言われることが多いんですが、僕たちとしては解散したつもりはないんですよ。兄妹はきっとみんなそう思ってる。だからと言って今後またみんなで活動するなんてことはないだろうけどね(笑)。
ーーえっ、もうしないんですか!
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正男:だってもう60歳過ぎだよ(笑)。やりたいなとは思うけど、みんな今の生活や活動があるからね。難しいと思うよ。
最近の玉元兄妹は?
ーー皆さんの近況はいかがですか?
正男:個別に連絡は取り合ってるけど、冠婚葬祭でもないとなかなか全員そろう機会がないですね。でも兄妹ってそれくらいがいいと思うんですよ。大人になってそれぞれ家族もいるのに、いつも固まってたらおかしくなっちゃう(笑)。
ーー一番よく連絡取られるのはどなたですか?
正男:光男ですね。今、沖縄に高齢のおふくろが一人暮らししていて、近くには一夫もいるんだけど以前、脳梗塞をしてるから体が不自由。いろんな手続きを僕と光男でやってるからけっこう忙しいんです。
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ーー光男さんはたまに正男さんのライブにも参加されてますね。
正男:そうなんです。初めは「もう無理だよ〜」とか言ってるんだけど、結局やればすごく楽しんでやってる。そういう姿を見られるのは僕としてもうれしいですね。
フィンガー5以降の音楽活動
ーーフィンガー5が活動停止した1978年以降も、正男さん、光男さん、晃さんによるザ・フィンガーズや正男さん、晃さんによるZAPP、同じく正男さん、晃さんによるAM FINGERSなど、兄弟での活動は断続的に続いていました。まずはフィンガーズで活動された経緯をお聞きしたいのですが。
正男:フィンガー5の活動停止にも関わるんですが、定期的に開いている家族会議でこれからも続けていこうとなったのがこの3人なんです。
ーー音楽性はガラッと変わりソウル、ファンク調に。
正男:そうですね。自分たちがやりたい曲を作って、演奏しながら歌うというスタイルです。
ーーここでようやく"大人のフィンガー5"を実現できたわけですね。デビュー曲の『CRAZY TOWN CRAZY NIGHT』(1979)は近年の和モノのDJシーンでは人気の曲になっています。
正男:へぇ、そうなんだ?うれしいけど全然知らなかった(笑)。
ーーフィンガーズ時代の3枚のシングルはどれも印象深いですが、一番のお気に入りは?
正男:2枚目の『Goodbye Memory』(1979)は僕が作曲しました。僕は曲を作る時、適当な英語っぽいフレーズで歌いながら作るんです。洋楽的なメロディーにどうやって日本語の歌詞を当てはめるか苦労したけど、世界的に通用するバラードに仕上がったんじゃないかな。
ーーフィンガーズの活動は約2年ですが、反響はいかがでしたか?
正男:あまり大きくはなかったね。やはり僕たちの目指す音楽は当時の日本では早すぎたのかもしれません。このままではやっていけないよねということになって、僕は飲食店、他の兄弟もそれぞれ仕事をはじめてグループとしての活動はなくなりました。無理やり芸能界に居座ろうと思ったらできたのかもしれないけど、それよりもちゃんとした生活を優先するべきだと。これも親父の教えですね。ただ、音楽自体を辞めるつもりはなかった。
ーー1985年には晃さんとZAPPを結成し『恋のゴールデン・ソウル』をリリースされていますね。なんと作詞作曲が当時ワム!で全盛のジョージ・マイケル!後に本人も歌っているようですが、どんな経緯でこの曲を?
正男:それがよくわからないんですよ(笑)。彼の書き下ろしが歌えるということですごく興奮したんですが、でもこれも売れはしませんでしたね。
ーーその後、1994年には再び晃さんとAM FINGERS結成。朝本浩文のプロデュースでアルバム『ステッピング・アウト』をリリースされています。
正男:これは楽器も持たずダンスも踊らず、HIP HOP的なポップスをやりませんかというお話でした。作品としてはいいものが出来たと思うけど、自分たちに主導権のある企画ではないので活動はすぐに終わってしまいました。
晃への思い
ーー活動面では晃さんと一緒におられた時間が一番長いと思うんですが、ミュージシャンとしての晃さんをどう思われますか?
正男:昔から才能があったけど、年を重ねて本当にいいミュージシャンになってきてると思いますよ。ギターにしても歌にしてもすごく上手いと思う。僕はソウル、ファンク志向だけど、あいつはどちらかと言うとロック志向。これまで僕がやりたい音楽に引っ張ってしまった部分もあるけど、これからは自分が本当にやりたいことを突き詰めてほしいなと思っています。
ーーフィンガー5時代、晃さんがスポット浴びることに複雑な気持ちは?
正男:それは仕方がないと思っています。あの頃のメインは晃と妙子。世間のイメージは未だにそうだから。でも昔からそれぞれ役割が違うことを理解してるし、なにより兄妹ですからね。僕と晃のハモりは最高だと思ってるし、一緒にやっている時は自分でも心地いいですよ。
同僚の嫌味に奮起!不動産営業でもトップに
ーー80年代から90年代にかけ、こういった活動と並行して芸能以外のお仕事も。
正男:初めはスナックで、その後は一夫がやってた不動産会社の営業ですね。
ーー心ない言葉を浴びることはなかったですか?
正男:不動産を始めた頃に同僚や先輩から「フィンガー5だからと言って簡単に家なんか売れないよ」「お前が成績トップになったら裸踊りしてやる」と嫌味を言われたりしましたね。それが僕の沖縄魂に火を点けて「この世界でも絶対にてっぺんを取ってやる」と。3カ月後、トップを取って先輩に「裸踊りの件は…」と持ち掛けると「お前のやる気を引き出すために言ったんじゃないか」って(笑)。
ーー実力を見せつけたわけですね。
正男:そういうことを言ってきた気持ちもわかるんですよ。打ちとければみんないい人達だし、彼らとは今でもいいお付き合いをしています。
理想の空間「いちゃりBar」
ーー現在のいちゃりBarを始められた経緯は?
正男:不動産営業の後、アメリカンツーバイフォーに興味を持って建築の方面に進みました。最終的に内装関係の仕事をするようになったんですが、年齢を重ねると肉体労働はしんどくなってくる。そこで2007年にこのお店を開いたんです。元々、水商売は好きだし、楽器やカラオケを置いて音楽をすることもできるし。
ーー東京・町屋で始められたというのはなにか理由が?
正男:うちのカミさんの地元なんですよ。ベイビー・ブラザーズ時代にファンクラブに町屋の方がいてよく知ってましたし、中学校の頃お付き合いしてた彼女も荒川区の人。このあたりには親近感があるんです。
ーーさりげなくすごい情報が…!あんなに多忙だったのにお付き合いしている方がいたんですね!
正男:忙しかったけどこっそりディスコにも通ってたし、けっこういろいろやってるんですよ(笑)。彼女は今どうしているかわからないけど、ここにいると昔ご縁があった方たちが大勢たずねて来てくれます。ここが僕にとって理想の空間ですね。
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現在、いちゃりBar運営のかたわら定期的にライブ活動をしている正男さん。70年代に多くの人を魅了したあのパッションあふれるステージングと笑顔は今なお健在だ。
玉元正男(たまもと・まさお)プロフィール
歌手。1959年2月2日、沖縄県具志川市(現うるま市)生まれ。幼少期から兄妹でバンド活動を始め、ベース・ボーカルを担当。1970年にベイビー・ブラザーズとしてデビュー。途中フィンガー5に改名し『個人授業』、『恋のダイヤル6700』、『学園天国』など数々のヒット曲を生み出す。1978年のグループ活動停止後も不動産業、内装業などと並行し音楽活動を継続。現在は東京都荒川区町屋でミュージックバー「いちゃりBar」を経営するかたわら定期的にライブ活動をおこなっている。
(まいどなニュース特約・中将 タカノリ)