
やっぱりこう、スター性が際立つといいますか、何気ない家族会議でも結さん役の橋本環奈という俳優さんが放つ光のオーラは隠しきれないものがありまして、なんで隠し切れないかといえば、ちゃんと巻き髪にピンクリップでイヤリングという場違いなオシャレをしてくるからなんですね。
これ日曜の朝だよな。照明も光源を窓側に置いて、そっちに座る愛子(麻生久美子)と聖人(北村有起哉)は片光で陰影強め、一方の結さんは窓側に向く構図になるので正面から照明が当たることになって陰影が出ないから、どうしてもキラキラしちゃう。
もう最終回も近いから言っちゃうけど、目障りなんだよ。34歳主婦の生活感を描く上で、この美貌は目障りなんだわ。
以前もただ実家に来るシーンに結さんが巻き髪バッチリメイクに緑のドレスで現れて「キャバクラの体入帰りか」なんて揶揄されていた回がありましたけど、これだって演出の一部だし、そのシーンのリアリティを削ぐようなメイクは避けるべきなんです。
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結さんのこの顔面について、普通の演出家ならメイク担当に「巻き髪イヤリングピンクリップで」という指示は出さないよね、「急に家族会議に呼び出されて、日曜の朝にバタバタしながら駆け付けた感じで」と言うはずなんだ。それが演出という仕事の通常業務だから。
その通常業務が滞りなく行われていないことが伝わってくるんです。そのシーンにそぐわなくても、橋本環奈が橋本環奈であるという主張が優先されている、演出部が現場を統率できていない、現場が「いいシーンを撮ろう」と一枚岩になっていない、そういう雰囲気が漏れ出ちゃってる。
今日の主役は間違いなく愛子であって、NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』が主人公周辺にも脚光を浴びせる群像劇だとするなら、この橋本環奈のキラキラは演出部が積極的に抑制すべき要素でしかない。
以上の理由で、シーンとしてこの橋本環奈の撮り方は失敗してると思うんだけど、たぶん作り手側はこれを「成功」だと思ってる気がするのよ。「ハシカン、今日もキレイです」で満足してる気がする。わかんないけど、もしかしたらハシカン専用のキャッチライトを置いてる可能性まである。
作劇と関係なく、そういうところも気持ち悪かった第119回、振り返りましょう。もちろん作劇も気持ち悪かったよ。
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旅費のリアル
生活感という話でいえば、離れて暮らす一般家庭において交通費というのは大きな問題であるはずなんです。愛子と聖人は月2回、佳代さん(宮崎美子)に会うために糸島の実家に帰っているという。
土地勘がないのでGoogle先生に聞いてみたところ、神戸・糸島間の距離は約600km、東京・大阪間より遠いんですね。鉄道で行くなら片道1万5000円以上かかる。2人で月2回往復すると、12万です。テナントと住居の賃料もあるし、翔也(佐野勇斗)に給与も払ってるはずだ。基本的に客はいないし、臨時休業も頻繁にありそうだ。
今回の愛子の家出のきっかけは、聖人が糸島への移住を渋っていることでした。でも、この2人には2週間以内に糸島に行く予定はあるんだよね? 月2回行ってるからね?
「次に行ったときに、3人でよく話そう」
なんですよ、どう考えても。愛子が突発的に糸島に1人で行って往復3万使うことが、もうすでに庶民感覚からかけ離れてるの。私たちが家計のやりくりの中で生活しなければならないのと同じように、庶民から共感を得ようと思ったら、その想定された家計の中で物語を構築するのが脚本家の仕事なんです。
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この夫婦の家計については、糸島から神戸に来たときからずっと甘かったんだよな。「客がいなくてご近所さんがたむろしている」と「金が無限に出てくる」という矛盾をずっと抱えてきた。こういう矛盾があるから、糸島の美しい景色の中で愛子と佳代さんが対峙するという美しいシーンにも、入り込むことができない。
老衰のリアル
「佳代さんの本当の気持ちを確かめたくて」
どうして、糸島にずっといたいのか。その問いに対して、佳代さんは「やりたいことがある」と答えます。新しい作物を育てたい、新しい料理を作りたい。いくつになっても夢追い人というわけです。
脚本の意図としては、この佳代さんの夢と愛子のイチゴという夢をリンクさせているわけですが、いくらなんでも元気がすぎるだろう佳代さん。もう90近いはずだよね。このシーンから老衰や死の匂いを排除したこともまた、リアリティと生活感を削ぐことにつながっています。端的に言って、佳代さんことアスパラ妖怪の爆誕です。
続いて愛子に追い打ちをかけるのが、佳代さんの「娘の言うことやけ、信じよ」というセリフです。
この「娘」に痛く感動してしまった愛子さん。かつて12年にわたって同居し、その後も関係性は途切れていなかったはずの佳代さんと愛子の間で、「娘」と呼ぶことの重みがここで出てくるのも不自然の極みです。40年間の義母娘関係が漂白されてしまっている。実家から追われた家出娘を長男が拾ってきたんです。こんなのは結婚したときに済ましておくべき「感動」であって、今ここで佳代さんが初めて愛子を「娘」と呼んだのだというなら、あまりにも人物の歴史に対する作り込みが甘すぎる。
こうしてまた感情の蓄積というものが無視されてしまう。どこまでも連続していない、どうやらドラマティックらしい風景の断片が提示される。登場人物を掘り下げると必ず破綻が訪れるのもまた、『おむすび』のパターンでした。
お口パクパク愛子さん
そして家族会議が訪れるわけですが、『おむすび』が誰かを長セリフで説得しようとするとき、その話し手の口がパクパクと動いて無意味な音が長尺で発せられるシーンが何度もありました。
結さんが拒食症まがいの女の子とその母親に「母親って何なん?」論を垂れ流した場面、同じく結さんが佳代さんを「きよし」に連れ出し、永吉の学費使い込みの理由を聞き出した場面。いずれも、何か意味のありそうな単語の羅列があって、相手が魔術にかけられたように納得して、話し手の思い通りに事が進みました。
上記2つのシーン、結さんが何を話して、なんで相手が納得したか覚えている人はほとんどいないでしょう。何も話してないんですよ。今回も、愛子は家族に何も言ってないんです。「説得」という記号が置いてあるだけなんです。もう、今回の愛子が何を言って聖人を説得したのかも思い出せない。
なんか「自由」がどうこう言ってたな。これガーリーズの閉店セールSNS戦略のときにもピーターが急に何のつながりもなく「自由」って単語を出してきてウザかったんですけど、「自由」って言葉はフィクションのセリフとして、そんな簡単に使っていいもんじゃないんだよ。今まで見てきたドラマや映画に登場した「自由」ってセリフのすべてを蔑ろにされた気分になるんだよ。思いのほか、私自身が個人としてフィクションにおいても人生においても「自由」という単語にすごく重みを感じていることを再確認できたよ。それはありがとう。
まあそんでただ『おむすび』では、愛子がイチゴやりたいくせに「イチゴ」の「イ」の字も言わなかったズルさと、やっぱり愛子&聖人の馴れ初めの不健全さだけが印象に残ってる。
腕が鳴らないのかな、と思うんですよね。脚本を書く上で、ここでパンチラインを残して、見ている人の記憶にずっと残るようなセリフを書きたいと思わないのかな。かといって人物を配置して思いのままに動かすことに快感を覚えている感じもしないし、もちろん自身の魂の叫びや脈動を物語の形にして世間に問うてるわけでもなさそうだし、じゃあ、なんでノの字はこの仕事してるんだろう。どこにそのモチベーションがあるんだろう。マジで「橋本環奈と仕事してる自分」で満足してるだけなんじゃないか、そんなのを半年も見せられたんだとしたら、あまりにも空しくないか。
翔也がいます、翔也がいるのです
家族会議でも一言も口を開くことが許されなかった翔也。昨日の佳代さんからの手紙にも、翔也の名前はありませんでした。
こいつ、聖人と愛子が揃って糸島に移住すると決断した意味をわかってるんでしょうか。おまえがヨネダの家賃払うんだぜ。おまえにも人生があるんだぜ。
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』が主人公周辺にも脚光を浴びせる群像劇だとするなら、ここで翔也に「店はどうするんですか?」というセリフを言わせなかったことについて、いつもの統括さんを小一時間問い詰めたいところだね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)