(画像:南港ストリートピアノXより) 演奏マナーへの苦情を受け、JR加古川駅のピアノが撤去されてから、およそ2年。またしてもストリートピアノをめぐって騒動が起きています。
◆「練習は家でしてください」苦言がネットで拡散
大阪の商業施設ATCシーサイドテラスに設置されたピアノを管理、運営する「南港ストリートピアノ」が、利用方法に関する注意勧告をX(旧Twitter)に投稿したことがきっかけです。公共のスペースにあるピアノを練習のために使う人への苦言でした。
<こんな掲示はしたくなかった、、というのが正直な気持ちです、、 「練習は家でしてください」 こんなこと書かなきゃいけないなんて想定外でした。間違うのはしょーがないんです、、生身だから でも、人の練習聞かされる側はたまったもんじゃないんです。>
これが4000万近いインプレッションと2万弱のリポスト、1.2万のいいね(2025年3月23日 18時時点)を記録し、ネット上では賛否両論が巻き起こっています。(※現在は削除済み)
“弾きたい人が自由に弾けるのがストリートピアノだと思っていたけどそうじゃないのか”とか“だったらそれなりの腕前の人を事前で審査するなりすればいいのに”といった意見の他に、そもそもフードコート内に設置している時点でストリートピアノと言えるのかどうかといった声など、運営サイドの声明を疑問視するコメントが見受けられます。
一方で、南港ストリートピアノは言葉を間違えただけで、言っている事自体は正論なのではないかと擁護する人たちも。つまり、南港側は、練習のための練習であるようなひとつのフレーズを反復する演奏に苦言を呈しているのであって、一曲を通して弾こうとする姿勢の中でつっかえたりする分には、それはストリートピアノのコンセプトに沿ったものだから問題はないと言っているのだ、と。
双方の言い分にはそれぞれうなずける点があります。しかし、そこから浮かび上がるのは、そもそもストリートピアノとはなんぞや? この日本でどう扱ったらいいのか、いまだにあいまいなままなのではないか、ということなのではないでしょうか。
◆加古川でもストリートピアノ炎上
もともとストリートピアノは、2008年にイギリスで始まった“Play me, I’m yours”という活動から始まりました。音楽を通じて、見知らぬ他者同士が知り合い、ゆるやかなコミュニティを醸成していく。そのツールとして、誰もが親しみのあるピアノという楽器が置かれるようになったわけです。
日本でもヤマハが「LovePiano」プロジェクトを展開し、またピアノ系YouTuberと呼ばれる人たちの存在もあり、ストリートピアノは一躍市民権を獲得しました。
ところが、一昨年の加古川、そして今回の南港ストリートピアノと、同じような理由から同じような炎上をしてしまいました。もちろん、全国各地でルールを守って常識的に楽しんでいる人が多数なのだと思います。しかしながら、大きな問題が起きるときには、何かしら共通点があるように感じます。
というわけで、日本におけるストリートピアノはいったい何がまずいのか、考えてみたいと思います。
◆ひとりよがりの演奏になる日本的な理由
筆者は、一昨年の加古川の一件について『日刊SPA』で記事を書き、リモート出演した『ABEMA Prime』で所見を述べました。1人10分の演奏時間を守らなかったり、必要以上に大きな音で演奏したりする迷惑行為が相次いだ背景には、日本人が概して他者に無関心だからなのではないかと考えたのです。
それゆえに公共という概念を持ちにくく、ストリートピアノを弾いて街ゆく見ず知らずの人びとを“楽しませる”という感覚も術もないので、ひとりよがりの演奏になるのではないか、と推論を立てました。
そして一見“楽しませる”風に見えるピアノ系YouTuberの演奏も、あれは空中ブランコみたいなアクロバットで目を引くだけで、音楽を味わうことからはかけ離れているから、譜面とにらめっこして練習の成果を披露するタイプのひとりよがりと同じ、ということですね。
もちろん、海外でもみんながみんなストリートピアノに肯定的なわけではありません。アイルランドの新聞『THE IRISH TIMES』電子版(2023年5月3日)に、“街中にはびこるピアノは破滅的な社会崩壊の兆し”だと論じるコラムが掲載されていました。
ただし、コラムの著者が議題にしているのは、アマチュアが繰り返し演奏する耳タコの楽曲リストです。お前ら何度コールドプレイを弾いたら気が済むんだ!?、またイルマの「River Flows In You」かよ、と。
ここではあくまでも音楽鑑賞に関わる事柄が問われている分、まだマシだと言えるでしょうか。
つまり、日本で発生したストリートピアノ問題は、すべて音楽どうこう以前の常識の有無だというところが根深いのです。
◆自宅でやるべき本気の練習を平気でする恥じらいのなさ
今回、南港ストリートピアノが<練習は家でしてください>と強めに苦言を呈したのも、他者の目を無視した演奏、もっと言えば振る舞いは、ストリートピアノのコンセプトに反するのみならず、普通に考えてありえないからおやめください、と訴える意図があったのだと思います。
決して、“プロみたいに上手く弾けないならピアノにさわるな”などと言っているのではなく、自由に使えるピアノであったとしても、その自由には公私の区別があってしかるべきなのではないか、と言いたいのでしょう。
こうしてストリートピアノで本来自宅でやるべき本気の練習を平気でしてしまえることこそが、“私”が“公”へとだらしなく流れ込んでいる風潮を示す一例なのではないか。
たとえば、駅構内などでイヤホンで耳をふさぎつつ、スマホでウェブトゥーン(オンラインの漫画)を読んだりゲームをしながら、のろのろ歩く行為をよく見かけます。あれも、ストリートピアノで自分のためだけの練習をしてしまうことと変わりありません。
自宅や自分の部屋だからこそ許される“私”を公共のスペースにおいてさらけ出すことに、なんら恥じらいを感じていないからです。それを自由と履き違えている点も同じと言えるのではないでしょうか。
◆常識すら明文化しなければ統率が取れない社会に…
つまり、撤去された加古川、そして今回の南港ストリートピアノ、どちらも根っこは変わりません。本来、言われなくても常識で判断できていたようなことすら、もはや明文化しなければ統率が取れない社会になりつつあるのではないか、ということなのです。
たとえば、演奏は一人10分だか15分まで、とか、いちいちルール化しなければいけないのでしょうか? 音楽というものの特性、そして自分が聞き手にまわったことを想像すれば、ピアノを使っていい時間ぐらい、本来なら肌感覚でわかるものでしょう。
にもかかわらず、文字にして強制力をもたせなければならなくなってしまった。
先程の『THE IRISH TIMES』の言葉を借りれば、こちらこそ、より深刻な「社会崩壊の兆し」であるはずです。
ゆえに、南港ストリートピアノが冒頭で訴えた<こんな掲示はしたくなかった>の「こんな」とは、そうした常識の土台を失った光景に対する諦めだと受け止めるべきなのでしょう。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4