※画像はイメージです―[貧困東大生・布施川天馬]―
みなさんは、大学生の時、何に力を入れていましたか?勉強、研究活動、サークル、アルバイト、趣味など、なんでもできるのが大学生活のよいところ。ただ、打ち込む活動と自分の性質の方向性があっているかは、よく確認しなくてはいけません。
以前、東京大学応援部に所属経験のある私が、大学の部活について「生半可な覚悟であれば入るべきではない」とする記事を書きました。
いろいろな反応がありましたが、やはり「楽しかった」とするコメントのほうが多かった。順応できる方には楽しいでしょう。
厳しい厳しいとばかり言われる部活ですが、最近は大分マシになってきたようです。私は在学中に「2000年頃までは、練習のたびに先輩が竹刀を振り回していた」と聞かされたことがあります。
「平成に入って10年もしてから、部活に竹刀なんて」と思われるかもしれませんが、なんとなく「そういうこともあるかも」と思わせる雰囲気がありました。
令和になってからはだいぶ緩くなってきているようですが、それでも違和感を覚える慣習・風習は残っていました。
親や先生の言うことをよく聞いて、毎日10時間近くも机に向かって過酷な受験を突破してきた真面目なエリートが、大学では突然バンカラを気取って竹刀を振るっていたと考えると、なんだか不釣り合いで吹き出しそうになります。
今回は、大学の部活に残る面白い風習についてお伝えします。
◆特注の学ランで“絶叫”する応援部
応援団はリーダー・チアリーダー・吹奏楽団の3つのパートに分かれます。みなさんが応援団と聞いて連想する、掛け声を挙げながら腕を振り回す人たちが「リーダー」です。
彼らは低学年の間こそ「演芸」で観客の笑いを取るなど、時には道化のような振る舞いをしますが、高学年になるにつれて目つきが鋭くなり、髪はジェルでガチガチに固め、特注の学ラン(一着数万円)を着こなすバンカラ番長へ変身します。
今でこそ、血を見る機会は少なくなりましたが、かつてはかなり血の気が多い集団だったそう。毎年春期・秋期にある神宮球場での六大学野球のリーグ戦へ応援に向かう際に、昔の名残がみられます。
相手校と自校の陣地は「連盟境界線」と呼ばれる見えない領域で規定されており、80年代などは、これを一歩でも超えるとケンカが始まったとか。
もちろん、相手校との事務連絡で陣地を超える必要もできますが、そういったときには「絶叫」のあいさつで礼儀と気概を示します。
応援団では、あらゆる返事、挨拶を文字通り「絶叫」でこなすことが求められ、帰るころには喉がカスカスに。
六大学野球にて試合校が入れ替わるときには各校の渉外担当が連絡をするのですが、ここでも「絶叫」をしながら相手を睨みつけるように各種連絡をしている様を見ることができます。
◆アウトローなようでお役所的な側面も
こう聞くと、応援団は孤高の気高さを持つ、ある種無頼の輩のような振る舞いをする人々が集まるアウトロー集団のように思えるかもしれません。しかし、一方で大変お役所的な側面もある。
これは部活というより応援部に固有の文化かもしれませんが、あらゆる物事に決まった形式、手続き、定型文があり、それを全く同じようになぞることで一年が経過します。
私が応援部に入って初めて覚えさせられた定型文は自己紹介でした。
もはやうろ覚えですが、「ちわ(女性部員は「こんにちは」)、私東京大学運動会応援部(所属団体と学年)」から始まる自己紹介は、同期部員との飲み会から納会まで、あらゆるところで要求されますから、覚えなければ始まりません。もちろん、一言一句間違えてはいけない。
面白いのは、大学に入った今となってはどうでもいいことのはずなのに、なぜか自己紹介の中に出身高校を叫ぶパートがあること。
そして、高校名のあとには「名門!」と合いの手が入ります。同級生が「東京都私立開成高等学校出身!」のように名門校を叫ぶ中、特に進学校でもない我が母校を叫ぶのは若干の違和感がありましたが、話の上だけでも毎年東大生を数十人輩出する学校と、私で東大合格者が3人目の学校が同列に扱われるのは痛快だな、と面白がっていました。
最初の自己紹介で「それ、どこの学校?」という空気になったのは、いたたまれませんでしたが。
◆太鼓の叩き手になるには“手書きの受験願”が必須
一番困ったのは、太鼓の叩き手(鼓手)になる試験の時。応援曲に合わせる太鼓もまた全ての叩き方が決まっていて、一回でも外すと後で呼び出しを食らいます。
この太鼓は応援活動専用のもので、叩くときは横に寝かせて、頭上に振り上げたバチを叩きつけるようにして鳴らします。
全体重をかけて叩くので、太鼓はもちろん、人体にもダメージが。軍手とテーピングで厚く保護しても、手の皮はズルズルに剥けて血だらけ。
筋肉痛なんて生半可なものではない、骨の奥まで痺れるような痛みと疲労が全身を襲います。過去には疲労骨折までした先輩もいるそうです。
この太鼓は応援部員の憧れで、叩くには認定試験の受験が必須。そして、出願の際にも決まった形式があります。式辞用紙に手書きで作るのですが、受験願いの文言は決まっていて、一言一句間違えてはいけません。
さらに、お手本となる「受験願」と、すべての配置が全く同じになるように作らないといけない。つまり、漢字かなの言葉遣いはもちろん、どこで改行するかも、すべての文字の大きさや角度、筆跡までもが決まっているのです。
手書きでコピーを作るのです。しかもこれを、過酷な合宿中の、貴重な休憩時間の合間を縫って作らなくてはいけません。もちろん、初回で通るわけはなく、2回目、3回目の作り直しはざら。
◆東京六大学の応援団文化が残るワケ
私は何回かリテイクを食らったのちに体力の限界がきて倒れてしまいました。倒れるとそれはそれで心配してくれて「休んでいていいよ」と声をかけてはくれるのですが、どう考えてもそんなわけはない。同級生や上級生の目はもちろん、後輩からの見え方もあります。
応援団の内部は結構ドロドロしていて、雑談の話題は大半が野球、部員の(大抵はただれた)性生活の話、そして「○○先輩は仕事ができない/無能」という陰口でした。
部内政治に影響が出ると仕事がやりにくくなりますから、結局無理を押して練習に出ます。そうこうしているうちに、本格的に体を壊してしまい、部活についていけなくなってしまいました。
今となっては笑い話ですが、当時はこれを大真面目にやっていたのですから、面白い。
令和になっても出願手続きが手書きなのはいいとして、筆跡まで含めたコピーを手書きで作るのは、明らかに無駄。
ただ、型に囚われない生き方をするようで、結局あらゆる物事に型があることは、部活以外でもいろいろなことに共通するのではないか、と考えることもあります。
私には合わない生き方でしたが、高学歴な東京六大学で応援団文化が残り続けているのは、やはり理由があるのかもしれません。
―[貧困東大生・布施川天馬]―
【布施川天馬】
1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。著書に最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』がある。株式会社カルペ・ディエムにて、講師として、お金と時間をかけない「省エネ」スタイルの勉強法を学生たちに伝えている。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)