映画監督の原田眞人さん死去 石原裕次郎賞3度、「日本のいちばん長い日」で天皇真正面から描く

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2025年12月13日 11:44  日刊スポーツ

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16年12月 第29回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞でプレゼンターとして登壇した原田真人監督

2008年(平20)の「クライマーズ・ハイ」などで知られる、映画監督の原田眞人(はらだ・まさと)さんが、8日に急逝していたことが13日、分かった。76歳だった。


原田さんは、1949年(昭24)7月3日、静岡県沼津市に生まれた。13歳だった62年に東京・有楽町で見た米映画「突撃隊」(ドン・シーゲル監督)に感銘を受け、映画を見るたびに映画に関するメモや論評を書くようになった。そして英国に留学中の72年に、米映画「ラスト・ショー」(ピーター・ボグダノビッチ監督、71年)について書いた論評が「キネマ旬報」に掲載され、映画ジャーナリストとして活動を開始。73年に拠点を米ロサンゼルスに置き、取材活動を続けた。


一方で、映画監督になりたいという思いも根強く、79年「さらば映画の友よ インディアンサマー」で監督デビュー。映画ジャーナリストとして培った取材力をベースに、徹底した取材、時代考証を行い、積み重ねたもので作り上げる脚本の緻密さ、情報料の多さは業界でも屈指と評判だった。そうした積み上げがベースにありながら「映画は、エンターテインメントでなければダメだ」という信念のもと、17年「関ケ原」をはじめとした壮大な歴史作品から18年「検察側の罪人」など社会派の作品まで、多彩な映画を世に送り出した。


「クライマーズ・ハイ」、15年「日本のいちばん長い日」、21年「燃えよ剣」で、日刊スポーツ映画大賞における最高賞・石原裕次郎賞を3度も受賞。生前は「3度も取った監督は、いないんだよ」と喜んでいた。中でも「日本のいちばん長い日」では、日本映画史に残る大きな挑戦に取り組んだ。67年に岡本喜八監督による同名映画が公開されていたが、原田さんは原作の半藤一利さんの「日本のいちばん長い日 決定版」と「聖断」をベースに、完全新作として描いた。その際「岡本監督がやりたくてもできなかった」(原田さん)という、昭和天皇を真正面から描くことにも挑んだ。岡本版は後ろ姿と声だけだったが、原田さんは徹底した取材を重ね、本木雅弘演じる昭和天皇をスクリーンに登場させた。


02年の米映画「ラストサムライ」では大村役で俳優として出演。11年「わが母の記」でモントリオール世界映画祭審査員特別グランプリを受賞と世界からも評価された。一方で、24年には磯村勇斗(33)が主宰し、故郷の静岡県沼津市でプロデュースした「しずおか映画祭」に、同市出身の先輩として“応援参加”。同市内で撮影した「わが母の記」がオープニング上映された。


ただ、今年8月26日には、自身のブログに「酷暑はひどくなり、私はますます老化する。考えてみたら5月末以来ゴルフに行っていない。去年は7月には33度の暑さでも頑張ったのに」と体調の異変をつづっていた。「夜間頻尿のおかげで朝の散歩も日課になった。明け方になるとほぼ30分おきにトイレへ通う。10分おきの時もある。それで6時には起きて、隅田川沿いの公園を歩く。突端のデッキで体操をして40分後に再びベッドに入ると1時間以上ゆっくり眠れる。こうやってブログを更新することでまた少し元気が湧く」などとつづったのが、最後の投稿となった。22年に監督・脚本・プロデュースを手がけ、安藤サクラ(39)とHey!Say!JUMP山田涼介(32)が主演した映画「BAD LANDS バッド・ランズ」が遺作となった。


戦後70年だった15年に、「日本のいちばん長い日」で石原裕次郎賞、監督賞の2冠に輝いた。その10年後の戦後80年の年に、原田さんは逝った。亡くなった8日は、1941年(昭16)に日本が米国に真珠湾攻撃を仕掛けた、その日だった。「日本のいちばん長い日」の受賞を受けた取材の中で「今回は、天皇を描くことしかできていない。10〜15年後に、今度は皇室から描いた『日本のいちばん長い日』を描ける社会が訪れてほしい」と口にしていたが、宿願は果たせなかった。【村上幸将】

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  • あの「フルメタルジャケット」の吹き替えも、戸田奈津子ではダメで、この人だったんだよね…。ご冥福をお祈りします
    • イイネ!3
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