衆院本会議で議長席に座る河野洋平衆院議長=2008年10月、国会内 今や影を潜めた感があるハト派の代表格として、護憲を貫いた信念の政治家だった。2009年の引退後も精力的に講演・言論活動を続け、改憲の動きには舌鋒(ぜっぽう)鋭くかみついた。
ロッキード事件をきっかけに1976年、盤石な自民党1党支配の下、政治生命を賭けて離党。新自由クラブを結成した背景にも、実は自主憲法制定を唱えるタカ派への強い違和感があった。
当時、自民党政綱等改正委員会の幹事会座長として「自主憲法制定を目指す」との表現を削除した新政綱の原案をまとめ、党内で袋だたきにあったのだ。
「政治人生が狂った。自民党にいるべきではないとこてんぱんにやられた。ロッキード事件で離党したが、下地は憲法だった」と述懐している。
引退後、著書の中で「政治家として、もっとも大事にしてきたのは、人間の生命である」「戦争を避けることは、政治家としての第一の責務」と自らの政治信条を記し、晩年も憲法9条を擁護した。
アジア諸国との関係も重視。宮沢内閣の官房長官として93年、旧日本軍の慰安婦問題で軍の関与を認め、「おわびと反省」を盛り込んだ「河野談話」を発表した。ただ、これには「その後の韓国の際限のない要求を招いた」との批判がある。
一方で、リアリストの一面もあった。
自民党の分裂と野党転落をもたらした政治改革を巡り、細川政権と対峙(たいじ)。土壇場で細川護熙首相とのトップ会談に臨み、衆院に小選挙区制を導入する政治改革法を成立させた。党の主張をほぼ全面的に飲ませたとはいえ、党内慎重派が抵抗。これを押し切ったのは、「再分裂」を回避するための決断だった。
ただ、その後の政治状況に「自民党内から異論が出にくくなっている。政治はどんどん劣化する」と語り、「とてもつらいが、一つの原因は小選挙区制」と嘆いた。
その後、社会党の村山富市委員長を首相に担ぐ大決断をし、自社さ政権を誕生させた。総裁として政権を離れたときの自民党のもろさを痛感し、一日も早い政権復帰を優先させたのだ。そして自らが首相の座に就くことはかなわなかった。
護憲・平和を掲げる理想主義と現実を見据えるリアリズムを併せ持つ、まれな政治家だった。

国会の控室に新しい看板を掛ける河野洋平氏(左から3人目)ら新自由クラブの議員たち=1976年7月、国会内

記者会見で元従軍慰安婦問題の調査結果を発表する河野洋平官房長官=1993年8月4日、首相官邸

与党3党首会談に臨む(左から)武村正義蔵相、村山富市首相、河野洋平外相=1995年8月、首相官邸

政治改革関連法案の可決後、共同記者会見に臨む細川護熙首相(右)と河野洋平自民党総裁=1994年1月、国会内