
1960年(昭和35年)の「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」は、吉展ちゃん事件の3年前に起きた身代金誘拐事件です。この事件はその悲劇的な結末のみならず、マスコミ報道の在り方についても日本中に大きな衝撃を与え、議論を巻き起こしました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)
【写真を見る】大阪に潜伏していた犯人、ひと目見ようと群衆が殺到
秘密裏に捜査するはずが1960年5月16日、東京都内で小学1年生の男児・尾関雅樹ちゃんが、学校からの帰宅途中に誘拐されました。犯人は雅樹ちゃんを連れ去った後、家族に電話をかけてきました。
「身代金200万円を用意しろ。警察に届けてはならない。そうすれば雅樹ちゃんを帰す」というのが犯人の言い分でした。
家族は警察に届け、秘密裏に警察と協力しながら犯人の指示に従うように装い、身代金を準備しました。
警察の動向が逐一報道にところが、その情報が外部に漏れたのです。新聞・ラジオを中心としたマスコミは、警察の捜査や被害者家族の動きを詳細に報道しました。特に、家族が警察と協力して身代金の受け渡しを準備していることが報道され、犯人もそれを知ることができる状況になりました。
|
|
時代はまだ戦争の反省を大いに引きずっている頃です。政府が言うとおりに情報を制限するなど唾棄すべきとされた時代でもありました。
過熱する報道合戦の中、新聞ラジオには被害者住所、脅迫の内容などが報道され、さらには「犯人はサラリーマン風の若い男」「中肉中背」などと、犯人がらみの目撃証言が事細かに掲載されました。
その結果、犯人は身代金の受け取りを断念し、逃走しました。
その2か月後、大阪に潜伏していた容疑者が逮捕されました。
逮捕されたのは本山茂久容疑者。30代の歯科医でした。その身柄はすぐさま東京に移送されました。
その様子は連日のように報道され、本山容疑者を一目見たいと、東京の駅には野次馬たちが1万人も集まり、新聞ラジオも殺到し、大混乱となったといいます。
その後の本山容疑者の証言は衝撃的なものでした。
彼は「報道により精神的に非常に追い詰められたため殺害した」と自供したのです。本山容疑者は逐一の報道で逃げられないと思い、雅樹ちゃんが逃走の足手まといになるとして、また証拠隠滅のために、殺害したと見られています。
また、事件発生から解決までの間、メディアや野次馬は被害者家族の自宅前に詰めかけ、家族の精神的負担を増大させました。警察の捜査情報も過度に報道され、犯人に有利な状況を作ってしまった可能性があることが問題視されました。
|
|
雅樹ちゃん事件をきっかけに、報道のあり方について大きな見直しが求められました。特に、誘拐事件においては、過度な報道が捜査に悪影響を及ぼすことが明らかになったため、警察と報道機関の間で「報道協定」が作られることになりました。これは警察と報道機関が協力し、一定の情報を、一定期間、自主的に報道しないことを約束する仕組みです。これによりマスメディア各社は、身代金誘拐事件などの場合「協定解除」まで、事件の報道を控えるようになりました。
報道のあり方を見直す契機雅樹ちゃん事件以降、日本では報道協定が徐々に定着し、実際に多くの誘拐事件で適用されるようになりました。この「アーカイブ秘録」でもとりあげた1963年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、報道協定が発効した第1号です。事件は悲劇的な結末に終わりましたが、報道協定は犯人の逮捕と事件の解決に貢献したと評価されています。
しかし、一方で、時代が進むにつれて、報道協定の意義や適用範囲が再議論されるようになりました。特に、ネットなどによりリアルタイムで情報が拡散される現代において、どのように報道の自由と捜査の円滑化を両立させるかは、今後の大きな課題となっています。