
『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』など数々の名曲で昭和歌謡史の一時代を築き上げた坂本さん。若き日のキュートな素顔や、誰もが知っている『上を向いて歩こう』の誕生秘話、そして最後に歌に込めた思いとは―。
学業に戻るためバンドを辞めることを決意していた
「九ちゃんはエネルギーにあふれていて、本当にキュートでした。『上を向いて歩こう』はみなさんに愛されてきた曲で、もし彼が生きていたら、今でも歌っていると思います」
こう話すのは、マナセプロダクションの二代目社長、曲直瀬道枝さん(82)。マナセプロは坂本九さんの当時の所属事務所で、曲直瀬社長は生前の彼を近しく知る一人である。
坂本さんを発掘したのは、曲直瀬社長の姉・信子さん。坂本さんは18歳でザ・ドリフターズの前身となった井上ひろしとドリフターズのバンドボーイを務めていた。
「九ちゃんはバンドボーイなのにすごい人気で、女の子たちにキャーキャー言われてた。評判を聞きつけた姉が見に行き、ぜひマナセプロにと声をかけたんです。でも九ちゃんはお母さんと相談して、学業に戻るためバンドを辞めることにした。そこをなんとか、と姉がお母さんと九ちゃんを口説き落としたんです」(曲直瀬社長、以下同)
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坂本さんはマナセプロに入所し、ダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてデビュー。1960年に『悲しき六十才』、続いて『ビキニスタイルのお嬢さん』で立て続けにヒットを飛ばす。大ブレイクはその翌年で、やはり姉の協力があった。
「あるとき中村八大さんがリサイタルを開くと聞き、九ちゃんに1曲歌わせてくれないかと姉が持ちかけた。そこで八大さんが九ちゃんのために書いてくれたのが、『上を向いて歩こう』でした」
中村八大さんのリサイタルで『上を向いて歩こう』を初披露。譜面は直前に渡され、独特の節回しで歌い上げた。
「九ちゃんのお姉さんが小唄をやっていたので、その節回しを入れたという人もいれば、九ちゃんの好きだったジーン・ビンセントの節回しじゃないかという人もいる。九ちゃんはウエスタンカーニバルでヨーデルを歌っていたので、喉を回すこともできました。そうしたいろいろな素養がある中で素直に歌ったら、あの歌い方になったと思います」
リサイタルの翌月、NHKのバラエティー『夢であいましょう』に出演。坂本さんの歌う『上を向いて歩こう』は大きな反響を呼んだ。譜面のプレゼント企画には、1万通の応募が殺到。年末の『NHK紅白歌合戦』に初出場し、一躍人気スターの仲間入り。
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多忙すぎてパジャマのまま担ぎ出して車に乗せて運ぶ日々
「九ちゃんはもうすごいスケジュールでした。1年間に映画を6本撮って、9枚のレコードを出して。彼の自宅は川崎だけど、帰っていたら寝る時間がないので、わが家に寝泊まりすることもよくありました。夜中の3時に帰ってきて、朝の5時には出なければなりません。朝になるとパジャマのまま担ぎ出して、車に乗せて運ぶんです」
曲直瀬社長は当時大学生で、仕事終わりの坂本さんを自宅でたびたび迎えている。
「お手伝いさんもいない時間だから、お腹がすいたと言えば、私が何か作ってあげて。
九ちゃんは向学心があり、上昇志向が強い人。大学に行ってる女の子って何を考えているんだろうと思っていたのでしょう。学校でどういうことをやってるの、とよく聞かれたものでした」
『上を向いて歩こう』は海を越え、アメリカ・ビルボード誌のランキングでトップ100入りを果たす。始まりは些細なきっかけだった。
「九ちゃんが歌う日本版のレコードを向こうに持ち帰った人が、町の小さなラジオ局に“こういうレコードがあるんだけど”と持ち込んで、口コミで広まって。そういう事象があちこちであったんです」
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ビルボードでは70位台からスタートし、ついに1位を獲得。3週続けて日本人が日本語の曲でビルボード第1位に輝いたのは初めてで、今もその記録は破られていない。
アメリカでの売り上げは100万枚を突破し、外国人で初めてゴールドディスクを受賞している。当人はどんな心境だったのだろう。
「東京新聞の記者さんが“大変だ大変だ、向こうで1位になった”と教えてくれて。でもあのときは九ちゃんもさほど実感がなかったと思う。あまりにもアメリカって遠かったから。実際、日本ではそれほど騒がれませんでした」
国外では『SUKIYAKI』のタイトルで親しまれ、70か国以上で総売り上げ2000万枚超の記録を達成。世界的ブームを巻き起こしていく。
坂本さんは時の人となり、NBCの音楽バラエティー番組『スティーブ・アレン・ショー』からのオファーで渡米。
『上を向いて歩こう』でスターダムに上りつめた後も、『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』『幸せなら手をたたこう』とヒットを連発。昭和歌謡史の一時代を築き上げていく。
事故に遭った大阪行きはプライベートだった
'83年、創業者である父が脳梗塞で倒れ、曲直瀬社長はマナセプロの二代目社長に就任する。そこには坂本さんの後押しがあったと明かす。
「父が次の社長は誰にしたらいいだろうと九ちゃんに相談をしたら、みっちゃん(道枝さん)はどうだろうと。私は大学卒業後、自分で花屋を始めていて、5年ほどたったころ。花屋をきちんとやれているのだから、プロダクションも任せられるんじゃないか、ということでした」
坂本さんも歌手としてはかつての勢いはなくなり、事務所は低迷の一途をたどっていた。道枝さんがプロダクションの社長に就き、まずは再起をかけ、テレビ局回りからスタートした。
「あのときはすごくいじめられましたね。べそをかくような状態です。九ちゃんが“ごめんね、僕のためにこんな嫌な思いをさせて”と言ってくれました。でも九ちゃんと一緒にできた仕事は少なくて。私が社長になってから2年余りしかいなかったから」
生前最後の曲となったのが『懐しきlove-song』。大人の男が歌える歌をという、坂本さんの思いを込めた歌だった。'85年8月12日、坂本さんは大阪へ向かうため、日本航空123便に搭乗する。同日夕刻、123便が消息不明とテレビ各局が一報を流した。
「大阪行きはプライベートだったので、私はまったく知りませんでした。でも当時デスクだった私の夫は、九ちゃんから聞いていたようです。ニュースを見た私が“123便が行方不明らしい”と話したら、“えっ、それ九ちゃんが乗ってる飛行機だ”と言って」
航空会社に問い合わせても、誰も何も答えられない。現場は混乱し、情報は錯綜し、どこが現地かもわからない。
「すぐ九ちゃんの自宅に向かって。時間がたつにつれ、外にはマスコミの方がどんどん増えていって。電話をしても何もわからなくて、もう手探りで出かけました。自衛隊機が山梨、群馬の方向に飛んだという情報だけで、向かった先は現場の裏側でした」
翌朝、日本航空123便の御巣鷹山墜落が判明。由紀子夫人やご家族と付近に待機していた曲直瀬社長は、そのまま身元確認のため、みんなで現地の体育館へ向かった。
「奥様の柏木由紀子さんがご遺体と対面されました。私はそれを遠くから見ていました」
当時のマスコミは正常ではなかった
享年43。しかし悲しみに暮れている暇はない。乗客、乗員計520人が死亡した日本の航空史上最悪の大事故だ。事務所の代表として、マスコミ対応に翻弄された。
「あのときのマスコミは、もう正常ではありませんでした。何しろ大事故だから、取材をして、何かしら書きたいと押し寄せてくるんです。私は奥様やご家族を守らなければいけないし、ほかの悲しんでいらっしゃる遺族の方が御一緒なんですから」
事故から今年でちょうど40年。曲直瀬社長はこの40年、命日には欠かさず墓参りを続けてきたという。今年はまた『上を向いて歩こう』のリリースから65年というアニバーサリーにあたる。
「柏木由紀子さん、ユニバーサルミュージックをはじめ、プロジェクトのみなさんと、この節目に3枚組のベスト盤CD『坂本九』をリリースします。みなさんが覚えているのは、たぶん43歳の九ちゃんですよね。
でも九ちゃんが『上を向いて歩こう』でゴールドディスクを受賞したのは19歳のときで、あの笑顔をフィーチャーしたい。あのときの魅力、パワー、エネルギーをみなさんにお見せしたい。
そして私の人生の終活として、CDのプロジェクトのみなさんと共にしっかり作らないといけない。みなさんの記憶にある大人の九ちゃんとはまた違う、九ちゃんの魅力をお届けできたらと思っています」
取材・文/小野寺悦子