『火垂るの墓』『この世界の片隅に』は“反戦映画ではない”のか 高畑勲監督の発言などから検証

11

2018年05月01日 16:11  リアルサウンド

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

リアルサウンド

写真

■『火垂るの墓』は“反戦映画ではない”のか


 優れたアニメーション作品を作り続け、アニメ界や映画界に多大な功績を残した高畑勲監督。その代表作の一つが、作家・野坂昭如の短編小説の映画化作品『火垂るの墓』だ。親を失った14歳の兄と4歳の妹が、戦時下に地域の共同体からはなれ、2人だけで困窮した生活を営み、死に向かって衰弱していくという内容が、映画の観客やTV放映時の視聴者に衝撃を与えた。その陰惨さに「二度と観られない」と語る人も少なくないほど、真に迫る作品である。


参考:『この世界の片隅に』が観客の心を揺さぶる理由 「感動」の先にあるテーマとは


 『火垂るの墓』が公開された1988年は、まだ日本の敗戦から43年。野坂昭如が自身を基にした主人公の清太が、もし実在し命を落としていなければ、57、8歳だっただろう。当時はまだまだ戦時中の記憶を持った人々が大勢いた。しかし、野坂昭如も高畑監督も亡くなった現在、すでに敗戦から73年の月日が経っている。ここまでの間に日本の状況も様変わりした。


 片渕須直監督の『この世界の片隅に』(2016)について、「反戦映画でないから素晴らしい」「戦中の時代も楽しさがあったじゃないか」などという声を、インターネットで見かけるようになった。『火垂るの墓』についても「反戦映画ではない」「主人公が死んだのは自己責任だ」という意見が見られる。この言説が広がる根拠の一つになっているのは、高畑勲監督自身が、いくつかの取材で確かに「反戦ではなかった」と語っているということである。


 では、それらの意見の通り『火垂るの墓』や『この世界の片隅に』などの作品は本当に“反戦映画ではない”のだろうか。ここでは、高畑監督の発言も含め、作品をしっかりと噛み締めて味わうことで、そのことを検証し、なぜそのような声があがるのか、そして『火垂るの墓』に描かれているものをふたたび考えていきたい。


■高畑監督にとっての反戦映画とは


 まず、高畑監督が言う「反戦映画」とは何なのかを考えたい。高畑監督は2015年に神奈川新聞の記事の中でこのように語っている。


「原爆をテーマにした『はだしのゲン』もそうですが、日本では平和教育にアニメが用いられた。もちろん大きな意義があったが、こうした作品が反戦につながり得るかというと、私は懐疑的です。攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか」


「なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」


 ここで高畑監督が述べているのは、「反戦」というのは戦争を止めるための実効性をともなっていなければならないということである。そしてその厳しい基準でいえば、『火垂るの墓』はそこから外れてしまうし、あれだけメッセージ性の強い『はだしのゲン』ですら、高畑監督にとっては、開戦を望む執政者の詭弁を覆し得るような反戦作品ではないという。だがそこまで言ってしまうと、そもそも「反戦映画」というものは今までに存在したのかという話になってくる。


 このインタビューからも分かる通り、高畑監督のなかには、戦争への怒りと、これからの社会への強い危機感が渦巻いていた。そこまで深く考えていたからこそ、高畑監督は、むやみに自作が反戦だというような話を口に出せなかったのだと思われる。そしておそらく、その裏には「平和教育アニメ」とは違う受け止め方をしてほしいという願望が込められていたように感じられる。


■文学性がテーマに与える“揺らぎ”


 日本で「近代文学」が成立したのが明治期といわれる。日本の明治期の文学は、勧善懲悪を描く「戯作文学」、政治思想を主題とする「政治小説」が中心だったが、「写実主義」によってそれらの要素を排除し、美しいものも汚いものも描きながら、もっと人間の真実をつかみだそうとする動きが生まれたのが、この頃であった。そこから文学は、より現実に近い、曖昧で謎めいた複雑さを獲得することになっていった。


 『火垂るの墓』が目指しているのは、高畑監督がそれまでに培ってきた、「生活を丹念に描くことで人間を描く」という作家性を駆使しながら、悲惨な運命をたどる兄妹の暮らした日々を、リアリズムによって描写しぬくということであろう。高畑監督は、これまで以上に写実性を高めることによって、本質的な意味において近代文学に肉薄していく。そして、そこから得られる実感によって、時代の壁を越えて現代の若い観客と戦争の被害に遭った人を結びつけるというねらいがあったはずだ。そのかつてない実験は、アニメーション表現の枠を広げる挑戦でもある。


 漫画を原作とした『はだしのゲン』(1983)や『火の雨がふる』(1988)などの「平和教育アニメ」 では、戦争責任の所在をより明確に示している。テーマが明確になるほど、作品における各々の描写はテーマへと収斂されていき、「戯作文学」や「政治小説」へと接近し、近代文学的な写実性からは離れていくことになる。『火垂るの墓』は、一つのテーマを観客に叩きつけるというものにはなり得ていない。だからこそ観客による自由な見方を許してしまいもするのだ。だがその一方で、耐えがたいほどのリアルさを獲得しているのも確かなのである。


■「異常」が「正常」になった世界を描く


 1956年、政府による『経済白書』のなかで「もはや戦後ではない」という言葉が記され、日本はもはや戦後復興期ではなく、経済的飛躍の時期に入ったという意味の主張がなされた。小説『火垂るの墓』が発表されたのは、それからすでに10年ほど経った1967年である。作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう)が、直木賞を受賞した『火垂るの墓』、『アメリカひじき』の選評のなかで、「裸の現実を襞(ひだ)深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背けていない」と語っているように、映画『火垂るの墓』は、それを再現したあまりにも悲惨な場面から始まる。


 日本の敗戦後間もなく、神戸三宮駅構内で、浮浪児となった清太が下痢便を垂れ流しながら衰弱してゆく。動けなくなった清太を、行き交う人々は「わあ、きたない」「死んどんのやろか」「アメリカ軍がもうすぐ来るいうのに恥やで、駅にこんなんおったら」と口々につぶやく。駅務員は構内の清掃のために、清太を含めた浮浪児たちが死ぬのを待っているように見える。


 児童福祉という観念が、この時代、この場所では全く機能していない。大人たちが瀕死の子どもたちを見殺しにする光景は異常だ。そして、彼ら浮浪児は「恥」であり、早いうちに死んで、目の前から消えてほしいとすら思っている大人もいるのだ。親を失った清太と節子を引き取った親戚のおばさんも、次第に2人を疫病神として扱い、虐待とすらいえる酷薄な仕打ちをする。


 重要なのは、これら異常な出来事は、戦中・戦後すぐの時代の日本人の感覚においては、むしろ「正常」になってしまっているということである。だが高畑監督は著書において、「親戚のおばさんを見て、今の若い人は『ひどい』と思うだろうし、清太があの家をとびだす気持ちに全面的に共感するはずです」と語っている。つまり高畑監督は、これらの陰惨なシーンが、戦争を知らない世代の人にとって「異常なもの」として捉えられるだろうことを想定しながら作品を作っているということになる。そして公開当時、たしかにそのような読みは的を得ていたはずなのである。


■責任を受け渡す日本的ゲーム


 たしかに清太が親戚のおばさんの機嫌をとり、いじめに耐え抜いていれば、妹を救えた可能性は高い。結果から考えればそうすべきだったのだろう。しかし清太は、日本が戦争に勝利し、戦地にいる父親が帰ってくることを信じ、それまでの苦労だと思って節子の面倒を一人で見ようと頑張っていたはずだ。しかし日本の敗戦を知り、父親の戦死を確信したときには、すでに節子は手遅れの状態になっていたのだ。その後、清太が一人で親戚を頼ることをしなかったのは、節子に対する罪の意識があったためであろう。


 ここで発生する節子に対する清太の罪悪感が、事態を複雑化している。客観的な目でみると、清太は盗みを働いてまで妹を救おうと、十分以上に手を尽くしている。その一方で清太個人が自分の選択を後悔し、節子の死に責任を感じるのも無理はない。それは人間一人ひとりの心の問題だ。しかしその罪をあえて社会的な俎上に上げて観客が問おうとするのならば、戦時中に日本の勝利を謳っていた政府や大人たちの責任もまた同時に問わねばならなくなる。自己責任論から与えられる強烈な違和感というのは、一方の「罪」を無視しながら、清太が感じた「罪」だけを取り出して、それを糾弾しているからである。


 敗戦後、内閣を組織した皇族の陸軍大将・東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)は、「一億総懺悔(そうざんげ)」を主張して、日本国民による政府への戦争責任追及から逃れようとした。その一方で、日本国民が全くの被害者で、一片の責任もなかったかといえば嘘になってしまうだろう。政府の責任に準じて、そのときに政治参加が可能であったにも関わらず戦争を止められなかった大人たちにも、被害を受けた子どもたちや、他国へ対して責任があったはずだ。


 駅で浮浪児が自然に死んでいくのを待っている大人たちは、自分たちの罪の象徴である子どもたちを見たくないと思っている。そして自分たちが糾弾されたくないから、責任を誰かに押し付けようとする。それはトップからリレー形式で次々に弱い者へと受け渡されていくという日本的ゲームだ。最終的にその責任のバトンを受け取り責任をとらされるのは、ときに被害者自身になってしまうこともある。「自己責任」という言葉が使われるときに注意しなければならないのは、それが誰か他の人間の責任を隠すために機能している場合である。


■『この世界の片隅に』を取り巻く「空気」


 ここで一時、片渕須直監督の『この世界の片隅に』に話を移したい。この作品の主人公、“すず”は、おっとりとした夢見がちな性格で、望まれてよく知らない男と結婚してしまうように、実際的な生活については、周囲の空気に流されて生きている。だが、天皇が自身の声によって敗戦を伝えた玉音放送を聴いたときに、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!」と、柄になく大声をあげて怒る。はじめて彼女は国の無責任さに愕然として、さらには自分が戦争について深く考えてこなかったことを知ることになる。それ以前の様々な“楽しい”描写について、「戦中の時代も楽しさがあったじゃないか」という意見を述べるのであれば、この終盤における、すずの価値観の大転換も含めて言及しなければならないはずである。


 すずはボーっとした性格なので、国民学校の生徒の大勢がそうだったように、ここに至るまでその事実に気づくことができなかった。しかし本質的な意味では、程度の差こそあれ、当時の日本人の多くが、このフワフワとした「空気」の中で、状況に流されていたのではないか。


 NHKスペシャル『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』において、経営学者・菊澤研宗は、戦争へと突き進んだ日本の中枢にいた、当時の官僚あるいはエリートたちの、組織内での心理状況について、こう分析している。


「初めから『空気』があるわけがない。どちらかというと、自分自身が空気をつくり出したのだと思います。一人ひとりが常に損得計算をしています。これはいわないほうが得だとか、抵抗しないほうが得だという結論に至り、みんなで沈黙しているだけなのです。独裁者が『この方向にいく』といったときに、その方向に進めば組織がダメになることがわかっていても、一人ひとり損得計算してみたらそれをいわないほうが得だという結論で一致し、沈黙に導かれる」


 戦争に進ませた「空気」の正体とは、まさにこれのことであろう。そしてエリートのみならず、政府の強制の下で一般市民の多くも、意識的であれ無意識的であれ、この種の空気を生み出してしまったように思える。


■清太の罪の意識の浄化


 『火垂るの墓』では、空襲で民家が次々に燃え、清太の母親は全身にひどい火傷を負ってしまうが、その焼け野原にいた男はこんなことを言っている。


「うちだけが焼けなんだら、そらもう肩身が狭いやろな。焼けてさっぱりしたわ」


 近所のみんなが焼け出されてるのに、自分の家だけが無事だったら恥ずかしいという、いかにも日本人的なムラ社会の発想であるように思える。しかし、この後ろめたさが、生死に関わる問題になってくると、よりシリアスなものとなって人の心を苦しませる。同様に、自分だけが生き残ってしまった清太は、節子と同様に衰弱死することで、やっと節子と“同じ”になれたと思った。そして幽霊になった清太は、やはりさっぱりとしているように見える。これは彼の罪の意識が、一つの儀式を経て浄化されていることを意味する。


 しかしその以前に節子は、「兄ちゃん…おおきに」と自分のために力を尽くしてくれた清太に対し、感謝の言葉を残しているのである。本当は、清太の罪はここで許されていた。この後、清太はあのおばさんの家に帰り、自分が生き残る道を模索しても良かったのだ。


■兄妹はなぜ幽霊になったのか


 ところで、「幽霊」とは何だろうか。私は、幽霊という存在は、それを見る人の心が投影した、まぼろしのことだと理解している。それをおそろしいと感じるのは、それがその人の、後ろめたさや罪悪感の象徴となっていることが多いためであろう。だから幽霊に見つめられるというのは、自分のなかに咎められるべき罪の意識があるということだ。


 では、清太と節子が見つめているものは何だったか。それは、ラストシーンでついに姿を見せる現代の神戸の街…つまり、それが象徴する現代の日本社会そのものである。日本社会は、いまだに清太や節子のような死んだ者たちに対して責任をとっていない。そして他の様々な責任を回避し合うゲームを繰り返しているのである。そのシステムが健在である限り、同じ間違いを何度でも繰り返すだろう。


 しかし、話はそれだけでは終わらない。そんな社会を作り、「空気」を作り上げているのは、現代に生きる私たちなのだ。ということは、兄妹の幽霊が視線を投げかけていたのは、そんな私たち観客一人ひとりであるといえる。この映画を「自己責任だ」と切り捨てたくなったり、「二度と観たくない」と目を逸らしたくなる人々がいるのは、そういう意味では当然のことだろう。(小野寺系)


このニュースに関するつぶやき

  • 時代とともに変わる人間の常識や価値観のなかで、人間の幸せとは、また憎しみとは何か・・・生きることの素晴らしさ、儚さを考えさせられる映画ですね。
    • イイネ!11
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(8件)

ランキングゲーム・アニメ

前日のランキングへ

オススメゲーム

ニュース設定