『みかづき』は高橋一生から見た“家族の物語”に 原作小説とドラマが異なる作風になった理由

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2019年02月23日 20:51  リアルサウンド

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 「私ね、学校教育が太陽だとしたら、塾は月のような存在だと思うの。太陽の光を十分吸収できない子たちを、暗がりの中、静かに照らす月」


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 高橋一生、永作博美主演のドラマ『みかづき』(NHK)が最終回を迎える。原作は森絵都の同名小説。昭和から平成の時代にかけて、三世代にわたり学習塾に情熱を傾ける人たちの姿を描く物語だ。


 原作小説が持つ雰囲気とは大きく異なるポップで愛らしい第1話で視聴者を驚かせたが、第2話では八千代塾の躍進と吾郎(高橋一生)たちの家族の形成、第3話では塾のありかたをめぐる吾郎と千明(永作博美)の衝突と吾郎の失踪、第4話では塾同士の過酷な抗争と千明からの周囲の人物の離反と、コミカルなテイストは残しつつも徐々にシリアスな物語にシフトして視聴者を引き込んできた。大胆な改変を行った脚本の水橋文美江と演出の片岡敬司の手腕が光る。


 それにしても、ドラマの中心にあるのは、主演の高橋と永作の魅力に他ならない。2人による高速テンポの会話のやり取りがドラマのリズムを作り出し、スピーディーな展開を支えている。また、第2話で「合併!?」と声が裏返ったり、酔っ払って寝転んで「やだもん」「やっ!」とスネたりするところは、まさに高橋ならでは。同じく第2話で怒りをこらえつつイヒッと笑ったり、第4話で無料の補習教室のアイデアに吾郎に賛同してもらって喜びを露わにするところなどは永作にしか作り出せない千明像だった。第4話で再会シーンでは、両者の息の合ったところと演技における運動神経の良さを感じさせた。2人ともホント可愛い。


■吾郎と千明にとっての「家族の物語」


 ドラマ『みかづき』は、吾郎による「家族の物語。ラブストーリーだ」という宣言から始まる。吾郎と千明の塾の物語と絡まるように、2人と長女の蕗子(黒川芽以)、次女の蘭(大政絢)、三女の菜々美(桜井日奈子)の物語が進んでいく。


 吾郎は塾の子どもたちにも、自分の子どもたちにも優しい眼差しを注ぎながら、彼らの心に火を付けることを何よりも大事にしていた。第2話での勝見(勝矢)との会話では、自分のことをマッチに例えていた。たとえ自分が灰になろうと、子どもたちに火を付けて炎を残すことができれば、それは十分価値のある人生だと話している。


 第3話では、ワシリー・スホムリンスキーの本を書くために重要な示唆を与えてくれた一枝(壇蜜)に向かって「スホムリンスキーは子どもに対して強い信頼と寛容がある」と話していた。強い信頼と寛容は、吾郎の自分の子どもたちへの教育方針と重なる。頭ごなしに何かを命令することなく、子どもたちが自分から動くことを待つ。動けなければ火を付ける。吾郎は千明と対立して家を出てしまうが、その間さえも無為に過ごしてはいない。世界を旅してまわり、勉強することに意味を見いだせなかった菜々美の心に火を付ける材料にしてしまった。


 経営者として多忙を極め、「太陽も月も関係ないわ。時代は変わったの」と第3話で言ってのけた千明は、第4話で落ちこぼれの生徒たちを見て、子どもたちを救う無料の補習教室を始める決意をする。再び「月」の存在に立ち返り、同時に娘たちの関係も改善させていく。前に進もうとするあまり、自分の心からこぼれ落ちてしまった自分の子どもたちにもう一度目を向けていくことにしたのだ。


 「僕がやるべきことは子どもたちに良い点を取らせてあげることじゃない。子どもが生きていくための知恵知力をつけてあげることなんだ」


 吾郎の教育理念は、子育てをする親の心に響くはずだ。親は子どもより先に死ぬ。子どもはいずれ一人で生きていかなければならない。親は子どもに対して、生きるための知恵知力を授けることが何よりも大切になる。それを行うことが吾郎と千明にとっての「家族の物語」ということなのだろう。


■ドラマは吾郎版『みかづき』を映像化したもの?


 「吾郎の中に芽生えていたのは、もっと別の思いであった。初めて手に入れた家庭という宝物を吾郎はただただ守りたかった」


 第2話の冒頭や第4話の途中など、吾郎を演じる高橋が「吾郎は……」とナレーションするのが面白い。声色に変化がつけてあることから、白髪の吾郎が自作の小説『みかづき』を朗読しているものだということがわかる。


 原作小説とドラマのタッチの違いをどう考えるか。筆者は、原作の『みかづき』がファクトであり、ドラマの『みかづき』は吾郎の目に写った世界を描いた“大島吾郎・作の小説『みかづき』”を映像化したものだと考える。第3話での「書かれてあることがすべてじゃない。そこからこぼれてしまったこともいっぱいある」という吾郎の言葉も、原作小説とドラマの関係を言い表しているようだ。


 原作では峻厳で冷徹だった千明がドラマではやたらとチャーミングなのも、吾郎の目からはこう写っていたと考えれば合点がいく。蕗子に吾郎が語って聞かせる「お母さんはすごく可愛い人だよ」という言葉は原作どおりだが、その思いを映像化したものがドラマの中の千明なのだろう。第2話の谷津遊園のシーンで千明と蕗子の笑顔がやたらアップで写し出されるのも、合成の都合というだけでなく、吾郎の記憶に家族の笑顔が深く刻み込まれていたのだと解釈できる。


 登場人物の誰もがテンション高めで感情や情熱を表に出しているのも、吾郎が描き出した世界だからなのではないだろうか。だとすると、それを読んだ吾郎と千明の孫、上田一郎(工藤阿須加)が触発されてもおかしくない。いや、そもそも吾郎が書いた『みかづき』は、一郎を焚きつけるためのものではなかったか。だから最初に「この物語を不肖の孫である、一郎に捧ぐ」と書いてあったのだ。


 最終回は吾郎と千明の最後の夢と、家を出た娘の蕗子、そして子どもたちのために補習教室を始めることを決意した一郎の物語となる。


(大山くまお)


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