北斗晶と聞くと、どんな姿を想像するだろう?
女子プロレス界を席巻したデンジャラス・クイーンの姿か、夫である佐々木健介さんを鼓舞する鬼嫁の姿か、歯に衣着せぬ痛快なコメントを発するタレントの姿か。
北斗晶の素顔
「人生に無駄なものなんてないんですよ。すべてが点でつながっている。私は55歳にして、自分のやりたいことを見つけたと思っているくらい」
“包容力”という言葉がぴったりの笑顔を浮かべながら、目の前の北斗さんは答える。
今年2月、長男・健之介さんの妻で女子プロレスラーの凛さんが、第1子妊娠を発表した。初孫の知らせに対し、北斗さんは自身のブログで、《私……おばあちゃんになるらしい。バンザイ〜》と喜びを綴るとともに、こう続けている。
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《皆様からの祝福のお言葉が凛ちゃんと息子にとっても最高の励みになり、こんなに皆さんに喜んでいただけた事が一生の思い出になると思います。今後とも、息子夫婦とお腹の赤ちゃんを皆様には温かく見守っていただけますようお願い申し上げます》
どんなときも周囲への気遣いを忘れない、愛情深い北斗さんらしい言葉だ。
だが、“女・(アントニオ)猪木”とも形容された、闘気あふれるプロレスラー・北斗晶を知っていれば、そのギャップに戸惑う人は少なくないかもしれない。
一体、どちらの姿が本当の北斗晶なんだ?
「全部、私ですよ。こうやってしゃべっている私も、テレビに出ている私も、『ライフ』や『コストコ』にいる私もずっと一緒(笑)。私の55年の人生の中で、北斗晶という女子プロレスラーは点の1つにすぎない。宇野久子だった私も、セブン―イレブンでバイトしていた私も、メキシコへ遠征していた私も点の1つ。でも、それがつながって、もっともっと大きな北斗晶になっていけると思って生きています」
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プロレスラー時代、北斗晶は般若の面をかぶり、絢爛豪華な振り袖風ドレスを身にまとい入場していた。その圧倒的存在感から、入場ゲートに姿を現すだけで、観客はどよめき、般若の面を取れば、再度、会場を揺るがすような歓声が飛んだ。まるで千両役者の七変化のように。
「生きていく中で経験したものは、必ず未来の自分の糧になる」。プロレスラー、鬼嫁、タレント、実業家、そしておばあちゃんに─。点と点がつながると線になり、線と線がつながると立体になる。北斗晶は、自らの生き方でそれを証明し続けている。
プロレスラーを志すも家族が猛反対
本名・佐々木久子(旧姓・宇野)は、埼玉県吉川町(当時)の3姉妹の次女として誕生した。生家は、12代続く地元では有名な農家だった。
「後継ぎを求める雰囲気のなかで生まれた私は、姉に続く女の子でした。がっかりされたみたいで、祝福ムードはありませんでした」
反骨の精神がこのころに宿ったかどうかはさておき、北斗さんはおてんばな女の子として育っていく。
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「自転車に乗っている男の子と言い合いになって、蹴飛ばしたらその子が転んでしまって。みかん箱を持って謝りに行ったことは、よく覚えてますね(笑)」
小学校へは歩いて片道1時間、中学校にいたっては自転車で片道40〜50分ほどかけて通学していたという。「結果的に9年間の通学で身体が鍛えられた」ことで、北斗さんの人生は導かれていく。
当時、ソフトボールに励んでいた北斗さんは、都内でも有数の強豪女子高に進学する。だが、「一生続けていきたいものかと問われると、そこまでの熱はなかった」と振り返る。
「生まれてまだ15年くらいの子どもに、『将来に向けて高校を選びなさい』とか『将来何になりたい』と聞くのは無理があると思うんです。自分が親になって、なおさらそれを痛感します。私は、自分の子どもたちにもアルバイトをどんどんしなさいと伝えていた。なりたいものがあっても、いろんな世界を見なさいって」
長男・健之介さんは、そうした母からの教えを胸に、18歳のとき海外へ留学する。映像の世界に魅せられ、現在はカナダのバンクーバーで映像制作の仕事に就いている。
「高校生のときバンクーバーへ行きたいと言っていたけど、私はそれまでの間になんでもやってみろと伝えていた。なんでも見ろ、なんでも食べてみろって」
では、北斗さん自身の高校時代はどうだったか? そう問うと、「何をしたいのかわからなかった」と打ち明ける。そんなモヤモヤを晴れさせる決定的な出会いが訪れる。プロレスである。
「えっちゃんという仲のいい友達がいてプロレスに誘われました。高校時代、目が垂れて髪が短かった私は『(プロレスラーの)前田日明に似てる』といわれていて、試合を見てファンになったのも前田さんでした。えっちゃんと一緒に新日本プロレスの道場へ行くと、選手から『君はいい身体してるね。女子プロレスラーになったら?』と言われたんです」
運命の出会いというものは一気に加速するものだ。道場から吉川町の自宅に戻ると、タイミングよく全日本女子プロレスがテレビ放送していた。映し出される新人の試合のダイジェストを見て、「絶対に私のほうが強いと思った」と北斗さんは笑う。
女子プロレスラーになる─。そう心に決めたが、家族からは激しく反対された。生家は地元でも有数の大農家だ。普通に高校を卒業すれば、おのずとお見合いの話が舞い込み、安泰な生活が約束されていた。だが、北斗さんの決意は揺るがなかった。
首の骨を折る重傷を負い、引退の危機に
当時、時代はクラッシュギャルズ全盛期。女子プロレスラーを目指す若い女性は多く、入門オーディションは、書類審査約3500人を通過した約700人の女性たちの熱気であふれかえっていた。
「目で殺さなきゃいけないと思っていましたよ」。引退から20年ほどたつが、プロレスの話に水を向けると、眼光鋭い“デンジャラス・クイーン”の目に戻る。
同じ会場にいた、同期の女子プロレスラーで、今現在も現役でマットに上がる堀田祐美子選手は、こう証言する。
「北斗はオーディション会場でもみんなから一目置かれていました。みんなが休憩している中でも、1人だけ拳立ての腕立て伏せをやっていた。あの子は絶対に受かるって、みんなが噂をしていました」
補欠合格だった堀田さんは、北斗さんより1か月後に入門する。そのため、北斗さんへは敬語で話しかけたという。返ってきた言葉は、「同期なんだから敬語はやめて」。それどころか、
「『初めて給料をもらったからご馳走させて』と言われました。近くのケンタッキーに連れて行ってくれたんですけど、“何だろうこの人”って呆気に取られちゃいましたよね(笑)」(堀田さん)
以来、2人は今に至るまで親友として交流が続く。堀田さんは、「北斗は私より年は1つ下ですけど、ずっと“年下のお姉ちゃん”のような存在です」と笑う。
北斗・堀田ペアは、マットの上でも結果を残し、デビュー2年目にWWWA世界タッグ王座を奪取。ところが、防衛戦の最中に、北斗さんは首の骨を折る重傷を負ってしまう。医師からは、「プロレスは諦めなさい」と告げられた。
「頭に穴を開けられて、ベッドで2か月間寝たっきりです。私の記憶はさっきまで戦っていたんです。気持ちを奮い立たせるもなにも諦めがつかなかった」
一命こそ取り留めたが、いつまたアクシデントが起こるかわからない。全日本女子プロレスは「復帰」を許さなかったが、北斗さんは何度も食い下がった。そして、「復帰に賛同する署名を1万人分集めたら考える」という言葉を社長から引き出す。
インターネットもない時代。1万人の署名はノートに直書きで集めるしかない。「どだい無理な話だろう。これで諦めるはず」。そんな思惑もあったのではないか。ところが、ふたを開けてみたら、8万人の直書きの署名が集まった。まだ2年目の新人レスラー・宇野久子に、である。「このレスラーはきっとすごいことをやってのける」、ファンは気づいていたのかもしれない。
メキシコ留学で学んだプレゼンする力
復帰後、宇野久子はリングネームを改める。当時、タッグを組んでいたみなみ鈴香選手にならい、当時の広報部長が「『ウルトラマンA』は、みなみと北斗が合体してウルトラマンになる。だから、宇野は北斗でいいんじゃないか」と思いついた。“晶”という名前は、北斗さんが好きだったレスラー、前田日明から拝借したものだった。
だが、リングネームを変えただけで強くなり、人気が出るなら苦労しない。それが可能ならすべてのレスラーが改名する。「メキシコ遠征がひとつのターニングポイントになった」。そう北斗さんは回想する。
「言葉が通じないから水の1本も買えなかった。その事実は、私に火をつけました。自分で何とかしなければいけないという意識が芽生え、プレゼンする力も養われた」
さらには、メキシコのプロレスが肌に合った。プロレスには、善玉であるベビーフェイスと、悪玉であるヒールという二大構造があるが、メキシコにはヒール的な役回りをする“ルーダ”というポジションがある。枠にとらわれず、自分勝手に振る舞うためブーイングこそ浴びるが、どこか憎めない。あえて日本風にたとえるなら、自由を愛する傾奇者のような存在だろうか。子どものころおてんばだった北斗さんは、“ルーダ”として水を得た魚のように躍動する。帰国後、日本のファンもその姿に魅了されていく。
前出の堀田さんは、「北斗は徹底してプロフェッショナル。意識がまったく違っていた」と舌を巻く。
「デンジャラス・クイーン北斗晶になってからは、それまでの女子プロレスという領域をはるかに超えるものとなった。金髪に独特のメイク、入場姿は般若のお面をかぶって着物姿に木刀! 当時の私には思いもつかない北斗晶の演出には脱帽だった」
神取忍と死闘を演じた伝説の試合は、今でもファンの間で語り草になる。ファンは畏敬を込めて、北斗晶を“デンジャラス・クイーン”と呼ぶが、突出したプロ意識があったからこそ、彼ら彼女らは熱狂した。
「語られるレスラーが一番だと思うんですよ。(ジャイアント)馬場さんとか猪木さんって今でも、“どっちのほうがすごい”とかファンの間で語られるでしょ。私は、ファンの頭の中でプロレスができるプロレスラーでいたかった」
北斗晶がリングに上がる。それだけでチケットは飛ぶように売れた。
「高いチケットを買うお客さんだけを相手にしたら“終わる”と思っていました。私の中で一番肝心なお客さんは、会場のもっとも遠いところにいる、立ち見のお客さんや3000円のチケットを買った人たち。“北斗すごかった。もっといい席で見たい”って思ってもらえるように試合をしていた」
リングインしてガウンを脱ぎ捨てると、黒いマニキュアや黒い口紅など、ディテールにこだわったプロレスラー・北斗晶が現れる。メキシコ時代に培ったものだった。
「遠くから見えるように黒いマニキュアをしてました。黒い口紅は、私が噛みつき攻撃をしたときに、噛みつかれた人はその部分が真っ黒になる。そういう小さなことが、大きく見えるプロレスラーになりたかったんです」
神は細部に宿るという。小さな点を大きくする─。それは、北斗さんが体現したプロレスにも言えることだった。
失敗だって自分次第で立派な“点”に
現在、プロレスリング・ノアで活躍する中嶋勝彦選手は、16歳のときに佐々木・北斗夫妻のもとで寝食を共にし、プロレスを学んだプロレスラーだ。北斗さんが、「息子」と呼ぶほど特別な愛弟子でもある。約20年前の思い出を、中嶋さんは一つひとつ丁寧に思い出す。
「あの当時は、佐々木(健介)さんと僕はフリーの立場だったので、次の試合が約束されてない状況でした。そのため、佐々木さんと2人で試合に出かける際は、必ず北斗さんが玄関でお見送りをしてくださり、『次の試合をつかんでこい!』と活躍を願ってくださっていました。落ち込んでいると必ずフォローしてくださる母であり女将さんのような存在で愛情の深さ、優しさにいつも救われていました。北斗さんのフォローのおかげで、つらいときも逃げ出さずにいられたといっても過言ではありません」
そして今、中嶋さんはトップレスラーの1人として、北斗さんを彷彿とさせる殺気あふれる試合でファンを魅了している。
「北斗さんからは、『人と同じことをするな』と教えていただきました。『誰もやってないことをやれ』と声をかけていただき、帽子のかぶり方の細かい角度など、北斗さんのご自宅の鏡を見ながら、北斗さんご愛用の帽子を借りて練習したことがあります。理屈だけでは到底まねできない北斗さんのポリシーを、いつも今でも学ばせていただいています」(中嶋さん)
北斗イズムは受け継がれている。一方で、北斗さんは現在のプロレスとは距離を置いている。
コロナ禍、大きなダメージを被った女子プロレスは、各団体からなる組織団体『Assemble』を立ち上げた。北斗さんも発起人の1人として、間接的ではあるものの実に18年ぶりにマットの上へ足を踏み入れた。「プロレスにかかわり続けてほしい」と願っていたファンは待ってましたとばかりに会場に詰めかけたが、当の本人は「私はプロレスを“する”のが好きです。“見る”のは嫌いです。戦うことが好きだった」と言い切る。
「今は芸能人としての北斗晶ですから、当時のプロレスラー北斗晶には戻れない。しがみつくことがないんですよ。何かをやるのが恩返しと思われがちですけど、語らないことも恩返しだと思っています」
同じく、『Assemble』のマットに上がった戦友である堀田さんは、そんな北斗さんの姿をどう見ているのだろうか?
「今の自分と昔の北斗晶を分けているということがとても伝わってきます。おそらく、今の女子プロレスに言いたいこともあると思うんです。でも、決して口に出さない。これも北斗晶のすごいところ」(堀田さん)
そういえば、取材中に週刊女性カメラマンが、「ファイティングポーズをお願いできますか」と、北斗さんにリクエストをする瞬間があった。笑いながら、「今はそういうのをしないんです」ときっぱりと断る姿を見て、「この人は今を生きている」のだとひしひしと伝わってきた。
女子プロレスの中で突き抜けた存在だった北斗晶
「女子プロレスの中で、北斗晶という突き抜けた自分がいた。だから、私は他の選手の引退式も絶対に行きませんでした。私が行ったらどうなる? 食っちゃうよって。今でもよく“北斗晶2世”なんて書かれたりするけど、絶対に私みたいにできないという自負がある。同時に、北斗晶の存在がかすむくらい、今の女子プロレスが盛り上がってほしいって気持ちもあるけどね」
舌鋒鋭く、歯に衣着せぬコメント力は、取材であっても健在だ。
そのコメント力をいち早く見抜き、タレント北斗晶を開花させた番組が、北斗さん自身初となるレギュラー番組『5時に夢中!』(TOKYO MX)だろう。それまでの北斗さんは、鬼嫁キャラとして番組に呼ばれていたが、同番組によってコメンテーターとしての才能が花開く。
当時のプロデューサーである現TOKYO MX取締役の大川貴史さんは、「僕自身、プロレスファンだった。北斗晶というレスラーは、観客の心を一瞬でつかむマイクパフォーマンスも魅力的だった。そのコメント力をテレビでも生かせないかと思ってオファーしました」と明かす。
今年、北斗さんはレギュラー17年目を迎える。その間には、がんとの闘いもあった。テレビ復帰最初の舞台は、『5時に夢中!』だった。
「力がないローカル番組にもかかわらず、『5時に夢中!』を選んでくださって感動しました。北斗さんの筋の通し方、人間としての分厚さを感じます」(大川さん)
乳がんは右脇のリンパに転移。医師からは「5年の生存率は50%」と告げられるほどだった。'15年9月、北斗さんは右乳房全摘出手術を受ける。そのときの心境を、自身で次のように思い返す。
「自分の胸が片方ないわけですから、涙も出ましたよ。でも、なきゃないで生きていられる。それにお涙頂戴という話ではないんです。闘病中も、息子たちは『今日のご飯何?』って聞いてくるし、健介は『あれってどこに置いたっけ?』なんて聞いてくる。もちろん、家族みんなで乗り切ったんだけど、“私がいなきゃ本当にダメだな”と思ったんですよ(笑)。人間って頼りにされることが必要で、無力感を感じるとやる気もなくなる。闘病中でも、自分が必要とされていると思えたことが、結果的に良かったんじゃないかなって思うんです」
母は強し、とはこのことか。
前出、プロレスリング・ノアの中嶋さんも、その強さに兜を脱ぐ。
「僕が、佐々木さんのご自宅に息子のように招いていただいたとき、北斗さんの年齢は30代半ばだったと思います。今の自分の年齢と、そのころの北斗さんの年齢が近づき、今の自分と照らし合わせて想像することがあります」
中嶋さんは、当時佐々木健介さんが所属していたプロレス団体に入門するも、まもなく倒産。母子家庭に育った中嶋さんは、親孝行したい一心でプロレスを諦めきれず、わらにもすがる思いで、佐々木家のベルを鳴らした。
「どこの馬の骨かわからない僕を、いくら愛する夫が頼むお願い事だからと了承したことは、本当に大きな決断だったと思います。佐々木さんはフリーになったばかりで仕事も安定しておらず、ご家族だけでも生活していくのが大変な時期だったと思います。今の僕にできるかと言われたら、絶対にできません。受け入れてくださったご夫妻の懐の深さは、一般では考えられないほどだと、僕は思っています」(中嶋さん)
TOKYO MX・大川さんも、「北斗さんは包容力のかたまり」とうなずく。
「ご自宅におじゃまさせていただくと、『大川さん、メシ食べていきなよ〜!』なんて友達のお母さんみたいなことを言うんです。安心感でしょうね。日本人が失いかけているお母さんの郷愁みたいなものを体現されている方です」(大川さん)
そして、期待を込めて大川さんはこんなエールを送る。
「これからの日本は、おばあちゃんになっても働かなきゃいけない時代になっていく可能性が高い。初孫の報を受け、北斗さんは令和の時代の新しいおばあちゃん像、そのロールモデルになるような気がしています。北斗さんは、やはり“持っている人”だと感じます」
祖母になれば、またひとつ点がつながる。北斗さんは、「特別な点である必要なんてないんです」と付け加える。
「私は手芸が得意だということで、テレビ番組の仕事が取れ、しかも鬼嫁メイクだったので、そのギャップが面白いと反響を呼びました。その後、料理もできるということで料理番組にも出させていただき、『セブン―イレブン』から“お弁当を作りませんか? スパゲティはいかがでしょう?”というオファーをいただきました」
プロレスラーを目指す前、北斗さんはお金を貯めるために『セブン―イレブン』で1年間バイトをしていたという。残数チェックをしていた北斗さんは、在庫管理のノウハウが頭の中に残っていた。
「売れるのはハンバーグですと伝え、私はロコモコ弁当を提案しました。結果、おかげさまでそれなりにそのお弁当は売れたんです。特別なことをする必要なんてないんです。何げないことがつながるんです。失敗だって、自分次第で立派な点になるんです」
“だから”にとらわれたくない人生
北斗さんは現在、『nopa(ノパ)』という化粧品を開発・発売している。サボテンを原料にした化粧水で、アイデアの原点は、プロレスラー時代のメキシコ遠征だ。試合でケガをした際、サボテンを塗ると治りが早かった。「きっとこれはいつか役に立つ」。何十年も前の「点」が、今の「線」を生み出す。「人生には無駄なんかひとつもない」。その言葉がリマインドする。
「ずっと前からアイデアはあったんです。でも、仕事や子育てをする中で、それを具現化する時間なんてまったくなかった。自分のやりたいことをやる時間なんてなかったんですよ。ところがコロナ禍になって、仕事が激減しました。普通だったら、“どうしよう”って思うのかもしれないけど、私は“今だ!”と思ってサボテンの化粧水を企画化し自ら売り込んだ。時間が生まれたからできたんです」
みんなどこかで、「役割」や「時間」にとらわれ、動きが限定されていく。だが、北斗さんの生き方や考え方はシームレスだ。前と後ろが、自然につながっていく。
「私、“だから”っていうのが嫌いなんです」。笑って、北斗さんが答える。
「お母さんなん“だから”とか、もう50超えたん“だから”とか。まぁ、50超えたから、食べすぎることは控えているけど(笑)。私は、“だから”にとらわれたくない。自分の人生なんだから、どんどんやりたいことやりなよって」
そして、こう続ける。
「私は、子どもに寄りかかろうなんてまったく思っていない。葬式代も自分で出して、なんならお金を残してやろうと思ってるくらい。それぐらいの勢いで生きたいと思っている。いつも息子たちに言っていることは、“家族って何ですか、家庭って何ですか”ということ。息子たちは、私の家族です。でも、長男は結婚し、新しい家庭を持った。自分たちの巣を育てていかなきゃいけない。そこには、私も健介もいないんです」
一番大切にしなきゃいけないのは家庭─。おばあちゃんになったとしても、家族と家庭は混同しない。それが北斗さんの哲学だ。
「私は健介と2人だけの家庭になる。最終的には1人になる。人間って1人で生まれてきたんだから、1人になるわけですよ。そのときに自分がどう生きているかが大切だと思うんです。まだまだ私にはやりたいことがたくさんある。55歳にして私は、やっと自分のやりたいことを見つけたと思っているくらい」
北斗さんの話を聞いていると、「自分もそういうものを作らなきゃいけないな」と感じてしまう。そのことを告げると、笑いながらこう返ってきた。
「作ろうと思ったら作れないんですよ。あるとき、突然やってくるんです」
突然やってくる─。だから、日々を無駄にしてはいけない。日常の小さな点が、人生の大きな点へと変わるように。北斗晶は、動き続ける。単なる“点”で終わらせないために。
<取材・文/我妻弘崇 ヘアメイク/東上床弓子 スタイリスト/桝田朱美>
あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。