劇作家・唐十郎さん、小説家としての「顔」虚実の境界を弄ぶ“創作術”と迷宮へ誘う“物語”

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2024年05月14日 07:00  リアルサウンド

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(左から)唐十郎『完全版 佐川君からの手紙』 (河出書房)、唐十郎『戯曲 少女仮面』 (KADOKAWA)
■芥川賞を受賞、小説家としても評価

 唐十郎が、急性硬膜下血腫のため5月4日に亡くなった。84歳だった。1960年代に劇団「状況劇場」を立ち上げた唐は、新宿の花園神社に立てた紅テントでの上演などで注目され、寺山修司などと並び小劇場運動の旗手となった人物である。劇作家、演出家、俳優などの活動を展開し、後年は劇団「唐組」を主宰した。また、『佐川君からの手紙』(1982年発表)で第88回芥川賞を受賞し、小説家としても評価された。


 若い頃には「状況劇場」と寺山の「天井桟敷」で乱闘事件を起こして逮捕されたり、自身が作詞して歌った「愛の床屋」の詞が問題視され発売・放送禁止になるなど、なにかとお騒がせな印象があったのは事実だろう。猥雑で土俗的な内容の芝居を書いた唐は、神社に張ったテントでの公演を一つの出発点としたのである。実在の人物や社会問題をとりこんだ話も多かったが、生真面目にはならず、見世物小屋的なうさん臭さを漂わせながら想像の翼を自由に広げるのが、彼の流儀だった。


  唐の死後、代表作の戯曲や小説のいくつかを読み返してみたが、彼にとってはやはり肉体というテーマが大きかったと感じる。唐十郎は、劇作家・演出家として舞台上の肉体を重視する「特権的肉体論」を打ち出したことで知られる。「特権的」と聞くとなにか確固とした「肉体」のあるべき形が示されているかのように思う。だが、その言葉を冠した『特権的肉体論』(1970年)という彼の文章は、筋道だった評論などではなく、感覚的に書かれた複数のエッセイの集まりなのだ。その冒頭では詩人・中原中也に触れ、彼の肉体が帯びた痛み、見つめられ傷つけられる肉体の特権性を語っている。確固としているというよりは、むしろ外部の力や視線で揺らいでいる肉体に特権性を見出しているわけだ。


■唐の感性が存分に発揮された初期作品『少女仮面』

そうした唐の感性が存分に発揮された初期の作品が、第15回岸田國士戯曲賞を受賞した『少女仮面』(1969年初演)である。同作では、「春日野八千代」と称する人物が物語の中心となる。春日野八千代とは、宝塚歌劇団に実在した伝説的な男役スターだ。女でありながら男を演じる「春日野八千代」は、ファンのあこがれの視線に囲まれている。仮初めの男装の姿に閉じこめられているといえるかもしれない。


  彼女のファンであり代表的な立場にある少女・貝は、「春日野八千代」に『嵐ヶ丘』で演じたヒースクリッフ役を重ねつつ、男役スターとしての理想像と現実の肉体の差を指摘する役回りである。エミリー・ブロンテの原作小説『嵐ヶ丘』は、主人公男女が死後に亡霊となって彷徨う幕切れだった。その意味で「春日野八千代」と亡霊となるヒースクリッフの重ねあわせは、彼女が実体を欠いた存在と化していることの隠喩と受けとれる。劇中では「春日野八千代」自身も、ジャンヌ・ダルクやオフィーリヤ(シェイクスピア『ハムレット』)といった悲劇的な死者に言及するのだ。


  そのようにイメージとしての体が強調される一方、劇中では「すてたパンツ」、腹上死、月経、堕胎など、生身の肉体を意識させる話題がことさら挿入される。「春日野八千代」をめぐる本筋に対し、腹話術師と人形のコンビが登場する脇筋が並行し、人間と人形の立場が入れ替わってしまうなりゆきなど、実体とイメージのズレという芝居のテーマを端的に表現している。


  1969年初演の『少女都市』を改作した『少女都市からの呼び声』(1985年)にも、同種のテーマはみられた。同作には、死体を継ぎはぎして怪物を生んだフランケンシュタイン博士(メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』)を思わせるフランケ醜態博士や、手術によってヴァギナをはじめ体がガラスになる少女が登場する。彼らはもとになった『少女都市』からの登場人物だが、改作ではその外枠として、手術台に寝かされ夢を見ている男の存在が示される。彼はフランケや少女を夢に見ているのであり、改作によって現実と非現実の関係がいっそう錯綜しているのだ。


■戯曲と同様の実体とイメージとの対比

  また、第55回読売文学賞戯曲・シナリオ賞、第38回紀伊國屋演劇賞(個人賞)、第7回鶴屋南北戯曲賞、第11回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞した『泥人魚』(2003年初演)には、認知症の詩人、義眼の漁師が登場する。同作で焦点となるのは、義眼の漁師に海で助けられた養女が、ウロコを付けて泥水のなかで泳ぐ人魚になるというモチーフだ。この設定にも、唐が活動の初期からこだわる肉体のテーマがうかがえる。


 『泥人魚』の場合、埋め立ての是非が問われ、湾を分断するギロチン堤防の映像がニュースで盛んに流れた諫早湾の干拓問題を背景に書かれている。泥水という劇中要素もその問題に起因する。また、同作には地元出身の詩人・伊東静雄を模した「伊藤静雄」が認知症の詩人として登場した。


  しかし、この芝居は、社会問題を告発するような方向づけはされておらず、現実の要素を織り交ぜつつ、作者が制約をもうけず想像を広げるところに面白さがある。それは、かつて『少女仮面』において、大逆事件で大杉栄らを殺害し、満州国での暗躍後に自殺した歴史上の陸軍軍人と同名の「甘粕大尉」を「春日野八千代」と出会わせた初期からの手法の延長線上にある。


  虚実の境界を弄ぶ唐の創作術は、小説にも活かされていた。小説における彼の代表作『佐川君からの手紙』は、フランスで日本人留学生・佐川一政がオランダ人女性を射殺し、彼女の肉を食べた1981年の実際の事件を題材にしている。小柄な日本人の佐川が大柄な西洋人の被害者を殺害した同事件の報道では、加害者の抱えたコンプレックスなど精神分析的な解釈が多くされた。だが、『佐川君からの手紙』の狙いはやや異なる。


  事件に関しては唐の監督で映画化する案が実際にあり、彼は佐川と手紙のやりとりをしたという。小説はその事実をもとにしている。だが、同作では「佐川君」と被害者の関係を、スウィフト『ガリバー旅行記』の巨人国のエピソードや、ゲーテ『ファウスト』の悪魔メフィストとファウストの関係と対比する。他のフィクションと関連づけつつ、加害者の相手へのあこがれをクローズアップするあたりは、実体とイメージのズレを描いた『少女仮面』の頃からの作法を小説にも導入したととらえられる。


  また、『佐川君からの手紙』では、人肉食という究極の“肉体関係”が当然、興味の焦点となるが、物語で鍵となる人物は、「佐川君」と面識があり、被害者についても知っていた美術デッサンのモデル、K・オハラだ。このアジア系女性は、モデルとして裸になるものの、性的サービスを職業としているのではない。美術として描かれるために見られ、見る者のイメージをかき立てるための存在である。人肉食という度を越した身体接触とは正反対の非接触を旨とする立場なのだ。ここにも、実体とイメージの対比という戯曲と同様の発想がみてとれる。


  そもそも『少女仮面』の「甘粕大尉」、『泥人魚』における伊東静雄を連想させる「伊藤静雄」と同様に、著者は『佐川君からの手紙』の「佐川君」を実際の加害者に肉迫しようとして書いたのではない。同作は「からの」と銘打ちつつ、作中の手紙のやりとりは、著者=唐十郎を思わせる語り手による「佐川君“への”手紙」に力点をおいた内容である。実体とイメージの遊離というテーマは一連の代表的戯曲と共通しつつ、手紙が物語の核となる点が、文字で表現する小説らしい趣向となっている。


  唐十郎の肉体は、確かにこの世を去った。だが、彼が遺した物語は、実体とイメージの間で揺れ続け、触れる者を迷宮に連れこむことを未だやめないのだ。


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