死刑執行後も冤罪議論が続く飯塚事件。破格のドキュメンタリー『正義の行方』監督が語った「疑問」

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2024年05月14日 19:10  CINRA.NET

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Text by 常川拓也
Text by 今川彩香

『正義の行方』は、1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が殺害された飯塚事件をめぐって、当時の捜査を担当した警察官、有罪判決を疑問視する弁護士、そして事件発生時から報道をしてきた新聞記者の3者の視点を交差させて展開するドキュメンタリー。犯人とされた人物の死刑をもって決着されながらも、多くの謎が残る実際の事件を、まるで答えのない複雑なパズルを読み解くように語る。

黒澤明の先駆的な映画『羅生門』(1950年)の構造を取り入れ、同じ事件を警察の角度から、次は弁護士の角度から、さらに今度は記者の角度からアプローチし、その全体像を多角的に再検証している。カメラはインタビューを受ける人々の言葉や表情の揺れをじっくり見つめ、それぞれの語りをどう評価するか、誰を信じるべきか、観客自身に考えさせる。

DNA型鑑定や目撃証言などから犯人とされた久間三千年元死刑囚。判決から約2年という異例のスピードで死刑が執行されたが、本作では、そのDNA型鑑定の証拠価値がないという専門家の意見も語られる。一方、監督の木寺一孝は、本作は久間元死刑囚が有罪か無罪かを問うことが目的ではないと語る。飯塚事件のスクープ(※)を報じた西日本新聞社による自社報道を検証する連載企画と出会い、そのなかで「記者たちが事件当時にスクープを出してよかったのか、葛藤を赤裸々に書いていた」ことに触発され、警察、弁護士、メディアそれぞれが抱える葛藤に焦点を当てた。結果として、本作は、日本の刑事司法そのものの脆弱さや欺瞞を突きつける。いかにして『正義の行方』はつくられたか、その方法論に迫った。

(C)NHK

─「信頼できない語り手たち」を通して複数の証言を並べて映す『羅生門』の話法は、疑わしさの残る事件を語るうえで適していると思いました。なぜこの物語装置を利用しようと思われましたか。

木寺一孝(以下、木寺):2011年に死刑をテーマに被害者遺族の番組を作っていたなかで、飯塚事件では死刑が執行されたあとに再審請求が進んでいるということを初めて知りました。もし再審開始になったら大変なことが起きると感じたのが、関心を持ったきっかけでした。

そこから弁護団に足場を置いて取材をしていましたが、どうしても一方的な視点になってしまって企画が通らない時期が続いていました。尻すぼみになっていた2018年ごろ、西日本新聞の連載が始まりました。少しでも事件に関係がある人に話を聞いて記事にしていて、その方法がヒントになりました。連載のなかには警察への取材も含まれていたので、警察も取材すべきだと考え、まず元福岡県警捜査一課長の山方泰輔さんに手紙を書きました。それが2019年ごろで、そこから徐々に取材が広がっていきました。

警察官を口説くときにこちらのスタンスをどう考えればいいのかと、プロデューサーらみんなと議論するなかで、それぞれの正義の物語にしたいと思い至った。あくまでも裁判を追うのでも、あるいは真相究明や犯人探しでもなく、3者それぞれの正義を探っていこうと。それが最終的に、『羅生門』のような構成で紡ぐかたちになりました。

木寺一孝(きでら かずたか)
1965年佐賀県生まれ。1988年に京都大学法学部を卒業後、NHK入局。死刑や犯罪を題材にしたドキュメンタリーやヒューマンドキュメンタリーを制作。『いとの森の家』(2015年/放送文化基金賞奨励賞)、ETV特集「連合赤軍〜終わりなき旅〜」(2019年/ギャラクシー賞奨励賞)。『“樹木希林”を生きる』(2019年)で映画初監督。BS1スペシャル『正義の行方〜飯塚事件30年後の迷宮〜」(2022年)で文化庁芸術祭大賞、ギャラクシー賞選奨受賞。2023年にNHKを退局し、現在は「ビジュアルオフィス・善」に所属しディレクターを続ける。

─パンフレットに寄稿した作品評の中で同様に『羅生門』型のドキュメンタリーとして、エロール・モリス『The Thin Blue Line』(1988年)に触れましたが、具体的に何か参考になった作品はありましたか。

木寺:実は『The Thin Blue Line』は未見なんです。ネタバレになってしまうので作品名は言わないことにしてるんですが(笑)、Netlixの犯罪もののリミテッドシリーズを参考にしています。

─確かに映画よりもむしろリミテッドシリーズなどに『羅生門』スタイルは多い気がします。『羅生門』のような構成は、本作においてはどのような効果をもたらしたと思いますか。

木寺:(鑑賞者に)疑似体験をしてもらいたいと考えていました。そのため、同心円的に遠い証言者から、遠回しに事件のことがわかっていくようなつくりを目指しました。普通なら久間さんの妻といったような核心の人物から入ると思いますが、(被害者が通っていた)学校の先生や駐在の警察官から始まって、草の根の関係者から徐々に事件を体験していくようなつくりにできないかと。映画に先駆けて放送されたテレビ版は、第1回、第2回、第3回のようにリミテッドシリーズ的な感じを狙っていました。本当は第4回まであるはずだったんですけど、さすがに4本、200分はダメだって言われてしまって、約150分になりました。

飯塚事件弁護団の岩田務・主任弁護人(左)と徳田靖之・共同代表(C)NHK

─『The Thin Blue Line』ではカメラの背後のモリスの声はほとんど入り込まない一方で、本作では木寺さん自身が時折、被写体に質問を投げかけますね。その声は観客の疑問を代弁する役割を果たし、いつしか観客も能動的な参加者となって、一緒に調査しているような気にさせます。自身の声も残しておくということは意図的だったのでしょうか。

木寺:立場が違う人たちの証言を聞いていくなかで、ナレーションを使ってしまうと、どうしても誘導してしまう。そうではなく、観客に積極的に探りながら見てほしかったんです。そこで、ナレーションの代わりに、実際の資料映像の音声、そして自分のインタビューする声を時系列を整理するための材料にしました。

例えば「1992年2月20日、ここで大変なことが起きるんですね」という質問の声をそのまま使うことなどは、あらかじめ念頭に置いていました。また、疑問を投げかけるところもですね。山方さんに(証拠の)捏造を本当にしてないんですね、と念を押すとか。自分がディテクティブ(※)になって事件を掘り下げるというより、証言者たちを掘り下げていくことをやりたいと思ったんですね。事件そのものを掘り下げるのであれば、例えば目撃証言者や、あるいは裁判官や検察官にも話を聞かなければいけなくなる。でもそれをやってしまうと、『裁判の行方』となってしまい、泥沼に入ってしてしまうと思ったんです。

なので、私たちが真相を追求していくのではなく、葛藤を語ってくれる人に話を聞きたい——30年前の事件をいまも背負っている人たちを深掘りし、こちら側の主観をできるだけ削いで、それを並べることに腐心しました。そのなかで、それをどうやってフェアに編集していくか、どちらかの比重を重くすると黒に見えたり、白に見えたりする。いかに情報を均等に見せるか、そこが1番苦労したところです。

山方泰輔・元福岡県警捜査一課長(C)NHK

─おっしゃる通り、それぞれの相反する証言を矛盾を残したまま観客に差し出していますね。例えば映画作家の想田和弘さんは、日本のテレビドキュメンタリーは台本主義的で、懇切丁寧にナレーションやテロップで説明してしまう問題を指摘していました。

木寺:今回、テレビの段階から映画にしようと構想していました。よくテレビでは、冒頭でまずこの番組の内容はこうですよというサマリー(※)があり、そこから「はいご覧ください」と1から見せていき、しかもナレーションでわからないところを潰していくというようなつくりになっていますよね。それは面白くないと思っているので、今回はナレーションをつけない、いちいち説明しない、立ち止まらないと、あらかじめ決めていました。

─本作では弁護団の主張が展開されたあとに、警察に科警研の証拠捏造疑惑を問うたり、取調捜査官による目撃証言の誘導や見込み捜査の疑惑についても突きつけています。取材の過程で得た情報を反映させながら疑問を投げかけているのか、ときに警察、弁護士、記者がそれぞれ応答して見えるように構成されています。どういったふうにインタビューを進められたのでしょうか。

木寺:取材回数がいちばん多いのは久間さんの妻で、4回ぐらいインタビューしています。山方さん、坂田さん(元捜査一課特捜班長)、飯野さん(元特捜班)は2回、西日本新聞の傍示さん(元事件担当サブキャップ)、宮崎さん(元記者)も大体はロングインタビュー1回ずつですね。4時間ぐらい一気に聞いています。

例えば、なぜ新聞記者になったのかというところから始め、それから飯塚事件のときは何をされていたか、取材対象者のなかで飯塚事件というものがリアルタイムで起こっているかのように聞きました。それは、インタビューで工夫したところでした。

それぞれの考えをぶつけ合うような構成にしようと最初から決めていました。単独で、できるだけ僕との真剣勝負の緊張感のなかで喋ってもらいました。例えば、西日本新聞で飯塚事件のスクープを出す際のキャップと記者の掛け合いだったり、検証取材を始めるときの編集局長と記者の受け答えだったり、あらかじめ情報として知っていたものはすべて狙って聞いています。

そのなかで、アイコちゃん着衣発見のくだり(※)は、インタビュー中に山方さんが、久間さんの妻にその服を見せたら「やっぱお父さんやったですか」と語ったと、突発的に言った。それは知らなかったので、その後に久間さんの妻に確認し「服を見せられたことはなかった」と聞いています。確認しないと証言も使えません。そういったバランスは取っています。

(C)NHK

─警察と弁護士はお互いを論評しますが、木寺さん自身はそうされない。どんな意見でも否定せずに聞くことを重視されたのでしょうか。

木寺:もともと司法制度の何かを暴きたいとか、この事件が冤罪だからやりたいということではなく、人間ドラマとして見たいというのがスタートだったので、この人を疑ってかかろうみたいなのはないんですよ。でも、話していることに何か疑問があったら素直に、できるだけフェアに聞くというのは心がけていたことでした。

以前、ドキュメンタリーとは何かという話をしていたときに、先輩プロデューサーから「人間を描くこと」だと言われたことがあったんです。ドキュメンタリーはすべて、人間って何かということを描いているんだと考えると、少し楽になりました。人間を掘り下げていけば何かに辿り着く──あるテーマに絞ってやっていくと、結局、間口が狭くなり、伝わり方が浅くなってしまうような気がして。僕は記者でも報道ディレクターでもないので、何かをジャーナリスティックに伝えようという気持ちはさらさらないんです。ドキュメンタリーとして、いま生きている人たちを通して、ドラマをやっているというふうに考えています。

─インタビューで被写体が話す言葉は、用意された台詞とは異なり、即興的で時折コントロールが崩れる瞬間があります。ドキュメンタリーにおけるインタビューという手法については、どのようにお考えですか。

木寺:もともとは三脚据えて正対して、過去のことをインタビューで聞くという番組はあまりやったことなかったんです。前作のETV特集『連合赤軍〜終わりなき旅〜』(2019年)のときから始めたんですが、それまでは日常のなかで生身の人間、例えば親と子、被害者遺族の夫婦の感情がぶつかるような場面をリアルタイムでどう撮り切るかということに腐心してきたんですが、そのやり方に限界を感じて──ちょっと飽きちゃったというのもあるんですけど(笑)──インタビューを主体にやろうと切り替えました。

例えば、何を聞くかを向こうには言わずに隠し玉をいきなりぶつけて、その反応を見るようなやり方だったり、インタビューにもいろいろな方法があると思いますが、僕は事前にじっくり話を聞いたり、一緒にお酒飲みに行ったりということを繰り返し行なっています。そういうところまで持ち込まないとできないタイプなんです。『連合赤軍〜終わりなき旅〜』でも、浅間山荘事件で服役を終えた元メンバーに、仲間を殺した理由を聞くのに10年ぐらいかかった。毎月の会合に行って、お酒飲んで、10年ぐらい経って、やっと聞くことができた。記者が突然「なぜ殺したんですか」と聞くより、もっと深いところにどう持ち込むか。本作でも撮影前から、みなさんと長時間一緒にいるということをやっています。

(C)NHK

─日本のドキュメンタリーで警察が率直に語っている姿を見られるのは珍しく思えます。警察と弁護士が互いを証拠をつくり上げる存在と言っていたり、警察のひとりは芝居の優劣で裁判の天秤がどちらに傾くか決まると認識していたり、本音が垣間見えるようで興味深かったです。

木寺:じつは、事前の取材では聞いてなくて。散々一緒にも飲んでいるのに、飲み屋では言っていなかったことを、初めてああいう場で言うんですよね。カメラ前だと言わないってイメージあるじゃないですか。彼らとは飲みに行って仲良くはなってるんですけど、居住まい正した緊張感ある撮影のやりとりのなかで、自分で気づかないうちに言っていることとかあるんだと思います。西日本新聞の人たちもインタビューだから言っていることも結構ありました。カメラの回ってない場では言ったけど、オンカメラでは言わないというのが普通だと思うんですけど、今回は結構逆なんです(笑)。不思議ですよね。

─それは後からカットしてくれとは言われないんですか。

木寺:誰一人としてそれがないんですよ。事前に見せろもありませんでした。オンエア前に、ある程度は内容を説明しに行くんですが、福岡で山方さんに説明しようとしたら、「あんた、もう1回いいって言ってるんやけん、もういいたい」って。

─書籍版のエピローグで明かされていましたが、山方さんが番組放送後、視聴者が思ったままに各々判断してもらって構わないと語られているというのも驚きました。

木寺:びっくりしましたね、本当に。「公平につくってもらってるから、裁判員みたいにして無罪だと思ったんだったらそれはそれでいいんじゃないか。私は違うけどね」と快活に言った。すごいなと思います。

─弁護団が証拠を精査する中で、警察による誘導尋問や見込み捜査、あるいは科警研のDNA型鑑定の改竄や捏造が行なわれていた疑惑が浮かび上がってきますが、「疑わしきは罰せず」ではなく、まるで「疑わしきは罰する」として進行しているかのように、本作を通して感じました。警察の捜査、あるいは日本の刑事司法についてはどのようにお考えですか。

木寺:警察が悪いと言うのは簡単なんですが、結局は裁判に問題があると感じています。坂田さん(元捜査一課特捜班長)が「裁判官の心象に任す以外に方法ない」と言うのが象徴的で、要するに警察官は仕事としては証拠や調書を上げるだけなんですよ。それを精査するのは検察であり裁判官であるので、裁判官が、もし何かあれば「これは恣意的な捜査になっていないか」って本当は指摘しなきゃいけない。

DNAのことも裁判官がわかるわけないので、本当は科学鑑定ができる人が裁くべき。それはアメリカがちゃんとしていて、科学的なことを俎上に上げるための基準が設けてあり、それに則ってすべて精査されていく。いかに主観を排除するシステムを持てるかが大事だと思うんですが、日本にはまったく見当たらない。だから、転がり出したら歯止めが効かない。結局それを止めるシステムがない。

例えばアメリカにはスーパーデュープロセス(超手続き主義)と言って、有罪か無罪か決めて、死刑を執行する前に、その犯人に精神疾患がないか何代も前に遡って調べたり、あるいはDNAを検査するためにお金が国から補助される。検察と被告が均等になるようなお金の補助があるんですよね。一方で、日本では弁護士は全部手弁当で、証拠にアクセスもできない。システムの不合理性の上で死刑が決まってしまう。

(C)NHK

─飯塚事件では、まるで急いで起訴され、刑が執行されたかのような手続きも見られ、疑わしさも感じました。本作を通して、死刑制度をどのように思われましたか。

木寺:被害者遺族の番組をつくったときに死刑を望む方々の声も直接聞いて、それも否定できないと思っているので、私自身は死刑に反対でも賛成でもないんです。ただ、死刑制度というより、司法の制度に危うさがあると思っています。人が人を裁くというのは、本当にできることなのか。しかも死刑のように人を殺すところまでいくことを、特に日本は、どの程度の覚悟をもってやっているのか。日本は、裁判官が自分の心証で判断していいという自由心証主義で決めるわけですよね。それは主観でいいということですが、本当にちゃんと精査した上で判断しているのかどうか、誰も確認できない。その辺が本当に緩い。人が人を裁くことの難しさをわかったうえでシステムも構築されていないとダメだと思うんですよね。その延長線上に死刑があるとは思っています。

─テレビ版から映画へのリメイクで、メディアの役割とは何かという問いがさらに前面に押し出されているとのことですが、具体的な違いはどういったところですか。

木寺:映画では、オールドメディアへの視点を厚くしました。西日本新聞が実践していることは、もし間違いがあったら直す、取材対象者に真摯に向き合って多角的に伝える──宮崎さん(元記者)の言葉で言えば、それぞれの正義を相対化する──ということだと思うんですよね。それは、それぞれの取材対象者に多角的に当たらないとできない。

そういうことができるのが、顔の見えるメディアではないかと思います。それがいまの時代にいちばん大事なことだと考えて、テレビ版よりも宮崎さんの分量をかなり増やしています。

─事件当時、最初のスクープを報じた宮崎さんが、「どこか一つの正義に寄りかかるのではなく、つねにいろいろな人の正義を相対化した視点で取材をして記事を書く」ことを学んだという言葉は本作を象徴するものだと思います。彼は「ペンを持ったおまわりさんにはなるなとよく言われるが、ペンを持ったおまわりさんでした」と自戒の弁を述べられます。

木寺:メディアの存在が冤罪を生む、メディアが力がないところは冤罪あるいは戦争を生む──つまり、冤罪はメディアの大衆煽動の力も作用して発生する一方で、メディアが権力監視の役割を果たしていなければ戦争や冤罪が生まれてしまう──という図式はたぶん間違いないと考えています。そのなかで西日本新聞の自社報道を検証する取り組みには、ああいうことをやっていかないといけないと励まされました。

現在の日本の政治も司法も、何か間違いがあったらやり直せばいいのにと思うんですよね。アメリカでは検察庁のなかに冤罪を防止する組織を作っているところがあって、自分たちがすでに有罪にしたものでもおかしいという申し出があったり、再調査で浮かび上がったことがあったら、もう1回調べ直すんですよ。それで無罪になったりしてるケースもある。でもそれが日本はなかなかできない。メディア含め、そういう検証というものを素直にもっとやればいいのにと思うんですね。それをできる宮崎さんたちはやっぱり、すごいなと思います。

西日本新聞社で飯塚事件を当初から取材していた宮崎昌治・元記者(C)NHK

─西日本新聞の中島さんが「裁判所は、司法というのは、信頼できるんだ、任せておけば大丈夫なんだというふうに呑気に思ってきたけどもそうではない」と語る言葉も深く印象に残りました。中島さんと、日本には裁判を批評する文化がなく、その決定を神のように讃えることへの疑問を話されたそうですね。

木寺:今回、特におかしいと思いました。御簾の奥の天皇のように特別扱いし、裁判自体を神棚に奉っている。批判ではなく、普通に批評して然るべきなのにという気がします。これは、たぶん司法記者クラブのせいじゃないかと思います。文句を言うと取材できなくなるから。日本は昔から江戸時代の大岡裁きみたいに、御上の「これにて一件落着!」の世界がずっと続いているということなんでしょうね。自分と関係ない話だと誰がどうなろうと全然興味がないというような、日本の国民性も結構影響しているのではと思います。

─書籍のエピローグでも触れられていますが、2024年2月、弁護団は2人の女児を最後に見たとされる目撃者が当時の供述を覆したという新証拠の存在を明らかにされました。本作の完成後の動きについて教えてください。

木寺:おそらく早くて5月か6月には、第二次再審請求審の判決が福岡地裁で出るのではないかと弁護団は言っています。その新証拠は出していますが、どういうふうに審理されるか、弁護団もそう楽観視していないと思います。再審開始となるのはそこまで甘くないだろう──なぜならすでに死刑が執行されているから。これがもし再審とか無罪とかになったら、大変なことになりますよ。過去に遡って、死刑案件をすべて洗い直せみたいになりかねないですから。

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