“賃上げできない会社”がやるべき「半分ベースアップ」とは? 給与のプロ直伝

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2024年06月17日 08:40  ITmedia ビジネスオンライン

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賃上げできない会社はどうすればいいの?

Q: 当社は中小企業です。大企業を中心に賃上げが行われていることもあり、現在の給与水準では新入社員の採用が年々難しくなっていることから、初任給を賃上げしてはどうかというアイデアが出ています。


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 本格的に検討したいと考えていますが、一方で気にかかるのはその他の社員のことです。全社的な賃上げは、原資がないため断念せざるを得ず、社員の不満がたまるのではないかと心配です。


●給与のプロがすすめる2つの方法


A: 初任給だけを上げるのは得策ではありません。「新しい賃金=現在の賃金×α+b円」というベースアップで、新旧賃金の逆転が起こらない調整するか、調整手当を出すことを検討しましょう。


●初任給だけを上げるのは得策でない


 初任給を上げなければ、新卒の採用は難しいでしょう。初任給はこの2年間、急速に上がっています。図1は産労総合研究所による「決定初任給調査」の結果です。最近2年間で、大学卒は9.6%、高校卒は7.3%上昇しています。


 しかし初任給だけを引き上げることはおすすめできません。


 人間には「衡平性」という性質があります。貢献に対する報酬の割合が、同僚と同じでなければ居心地が悪いという性質です。レベル100の貢献をしている同僚の賃金が80万円、つまり8割であり、自分の貢献がレベル90だとしたら、自分の賃金もやはり貢献の8割に当たる72万円が一番良い。75万円や70万円では困ると感じます。


 要するに差別はもちろん、ひいきも嫌がるわけです。何の貢献もしていない新入社員の賃金を既存社員より高くすることは、ひいきととられても仕方がありません。


 組織に不衡平が生じると、人は貢献を調整することによって衡平に近づけようとします。具体的には、離職や欠勤、怠慢な態度になったり、同僚に同様の動きを働きかけたりします。「もらいすぎ」の人もより貢献を増やして不衡平を解消しようとしますが、「もらわなさすぎ」の人が貢献を減らす行動の方が顕著に表れると言われています。


 同僚の賃金を知ることが、働く人の生産性に与える変化を調べた実験があります。これによると、自分の賃金が同僚より低いことを知った人は、知る前よりも生産量が減り、仕事に対する満足度も下がるという結果が出ました(※1)。新卒を獲得したいがために、その数倍の人数がいる既存社員の生産性と満足度を犠牲にすることは賢明でありません。


(※1)山根 承子・黒川 博文・佐々木 周作・高阪 勇毅『今日から使える行動経済学』2019年、ナツメ社


●「半分ベースアップ」を行う


 しかし今まで新卒を定期的に採用してきた会社が、今年だけ空白にするわけにはいかない事情も理解できます。若い人が入ってこなければ、物事に対する新しい見方や考え方、異なる視点などが組織に入ってきません。


 全社的な賃上げをする原資がない場合、2つの方法が考えられます。1つは、誰の賃金も減らない「新しい賃金=現在の賃金×α+b円」というベースアップをすることです。旧賃金が低い人は大幅に賃金増、旧賃金がすでに高い人の増加率は小さめになります。


 仮に、


・高卒初任給=18万円


・実在者最高賃金=50万円


であるとします。この状態から、


・高卒初任給=23万円(5万円アップ)


・実在者最高賃金=50万円(据え置き)


に変えたいとします。


 この数字を実現したい場合、両者だけでなく全ての人の賃金を、おおむね「新しい賃金=現在の賃金×0.84375+7万8125円」という形で変換します。高校卒初任給は23万円に上がり、実在者最高賃金は50万円で据え置かれます。


●計算式


 0.85375と7万8000円という数字の根拠は、少し算術的な話になりますが、次の通りです。


(1)18万円×A+B=23万円


(2)50万円×A+B=50万円


をともに成り立たせるAとBの値を求めます。


 (2)式から(1)式を引くと「32万円×A=27万円」です。これを成り立たせるAは27÷32で0.84375です。


 次にBを求めます。(1)式でも(2)式でも、どちらでも良いのですが、(1)式のAに0.84375を当てはめてみます。


18万円×0.84375+B=23万円


Bは23万円−18万円×0.84375で7万8125円です。


 Aに0.84375、Bに7万8125を入れると、(1)式も(2)式も、ともに成り立ちます。


 もちろん「×0.84375+7万8125円」という数字は、もともとの賃金と、変換後のターゲットとする賃金がいくらであるかによって異なります。常にこの数字があてはまるわけではありません。


 この方法は図1の通り、賃金カーブを、実在者最高賃金である50万円のところを支点にして時計回りに回転させることです。もともとの賃金が高い人ほど上がり幅が小さくなりますが、最高額の50万円の社員を除き、全員が上がります。新旧賃金の逆転も起こりません。


 ただしこの方法は、全員の賃金を5万円引き上げる場合に比べて、半分とはいえ原資を必要とします。全員が等しく底上げされるわけではなく、ベースアップの半分しか社内平均賃金が上がらないので、筆者はひそかに「半分ベースアップ」と呼んでいます。


●調整手当を利用する


 もう1つの方法は調整手当を使うことです。高校卒初任給を18万円から23万円に引き上げたい場合、基本給は据え置いて、新入社員には5万円の調整手当を支給します。既存の社員と逆転が起きないように、既存の社員でも基本給が23万円に満たない人には、その差額をやはり調整手当として支給します。基本給が20万円である人には3万円の調整手当を支給します。


 こうすれば、少なくとも賃金の逆転は起こりません。調整手当をずっと温存しておくのでは基本給と区別する意味がないので、毎年1万円ずつ減らすというような形で段階的に解消します。


 上記の例では5万円も初任給を上げるという極端な設定にしましたが、実際には2023〜2024年の間に、初任給相場は5万円も上がってはいません。産労総合研究所の「2024年度決定初任給調査中間集計」によると、高卒初任給は前年に比べて1万43円増加しています。調整手当を利用する場合、1万円程度の金額になるでしょう。これを4年で解消するとしたら、毎年2500円ずつ減額することになります。


 調整手当は2500円ずつ減額されますが、新卒を採用するような会社であれば、賃上げが毎年あるはずです。日本労働組合総連合会(連合)の集計によると、2024年の、従業員300人未満の中小企業の賃上げ額の平均は約1万2000円です(※2)。基本給が1万2000円上がれば、調整手当を2500円減額されても、差し引きで賃金が9500円上がります。


(※2)連合のプレスリリースより。2024年5月8日中間集計、集計組合員数による加重平均。


 ただし調整手当を利用する方法は、初任給引き上げの恩恵を享受できるのは入社後数年間にすぎず、生涯賃金にはほとんど影響しません。聡明な学生なら、このことにすぐ気付くはずです。


●初任給は重要か


 そもそも高校生や大学生は初任給を重視しているのでしょうか。確かに就職人気企業には初任給が高い会社が多いです。2023年のデータですが、「日経マイナビ」による大学生就職人気トップ10の企業の大卒初任給は平均26万2608円でした(筆者計算)。母集団を特に就職人気企業に限定したわけではない、産労総合研究所の「2023年度決定初任調査」にみる大卒初任給の21万8324円を20%あまり上回っています。


 しかし当然のことながら、学生は初任給だけで応募先を選んでいるとは限りません。将来享受できるであろう賃金や賞与、企業ブランド、企業規模、残業の多寡なども多かれ少なかれ考慮しているはずです。


 大学生が何を重視して就職先を選んでいるかについては、熊本学園大学の米田耕士准教授が研究しています(※3)。これによると、賃金は確かに重視されていますが、初任給ではなく社員平均年収を見ています。残業手当や賞与も含んだ年収の、ベテラン社員まで含んだ平均値です。平均年収が1%高くなると、応募倍率は1.167%高くなります。


(※3)『大学生の就職活動における大企業志向は何が要因か―企業別応募倍率の決定要因分析を通して』(『日本労働研究雑誌』2015年5月号所収)


 残業の少なさも重視されています。残業が少ない業種ほど応募倍率が高くなる傾向はあるものの、同じ業種内だと残業時間で大きく応募倍率に差が付くことは少ないようです。


 知名度は一定の影響こそあるものの、賃金に比べればわずかなものにとどまります。知名度の指標として広告宣伝費を利用すると、広告宣伝費が1%多くなっても、応募倍率は0.058%しか高くなりません。社員平均年収に比べれば、実に20分の1の影響しかありません。


 女性の採用実績がある企業は応募倍率が高くなる傾向があります。女性を採用することに消極的な企業はあり、そうでない企業には多くの女子学生が応募するからです。


 企業規模は応募倍率にそれほど影響を及ぼしません。社員平均年収が同じであれば、企業規模が大きくなっても応募倍率はあまり変わりません。


 要するに学生にとって企業の大きさや知名度そのものはあまり重要ではなく、平均年収が重要であり、社員平均年収が高い会社がたまたま大企業や有名企業であるだけのことだといえます。


 社員平均年収がかくも重要であれば、初任給だけを引き上げることはもとより、調整手当を利用する方法も、新卒の応募倍率を上げるに際してほとんど効果がないということになります。


 そうであれば、造語で恐縮ですが全社的な賃上げに続く次善の策は「半分ベースアップ」であると言えます。


(神田靖美、リザルト株式会社代表取締役)


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