「鹿島にすべてを捧げる」優勝に向けて奔走するポポヴィッチ監督の半生とは

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2024年08月31日 10:20  webスポルティーバ

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■ランコ・ポポヴィッチの半生 前編
鹿島アントラーズ監督ランコ・ポポヴィッチ。情熱溢れる指導のみならず、選手のポジションを大胆にコンバートするなど策にも富んだ名将だ。そんなポポヴィッチは、我々には想像しがたい稀有な旅路を歩んできている。14歳で父を亡くし一家を支え、兵役、そして祖国の崩壊......。鹿島を再び常勝軍団へと導くべく戦う、彼の半生をここに記す。

 ランコ・ポポヴィッチがこのチームを指導してきてすでにシーズンも半ばを超えた。

 そのタイミングでのインタビューは鹿島アントラーズを率いるモチベーションについて聞くことから始まった。ポポは間髪置かずに口にした。

「鹿島にすべてを捧げようと思わないはずがない」それはなぜか。「私はリーグを代表するこの名門クラブで働く機会を与えてもらった。そのことに感謝しないはずがない」

 イビツァ・オシムはジェフ市原(当時)の監督に就任する際、日本の歴史を深く学んで来日した。8月6日に「今日は広島に原爆が投下された日なのを知っていますか」と訊くと「当初、米軍機に新潟が標的にされていたのだろう」と返された。千葉のみならずアウェーで戦う土地の沿革までが彼の脳裏にはインプットされていた。影響を受けた恩師同様にポポが鹿島の指揮官に就く際、アントラーズの歴史を紐解いていたのは、広く知られている。「人生において重要なのは他者をリスペクトすること。両親はそうやって私を育ててくれた。サッカークラブに限らず、国家や組織をリスペクトするということは、どういうことか。それは、仕事をこなすということだけではなく、敬意を持って歴史を知ることです。鹿島はここ数年タイトルから遠ざかっているなかで私を選んでくれた。優勝というミッションはもちろん分かります。ただ、それだけではなく歴史を知って取り戻していこうと考えています。私にとってまた大きなモチベーションになっているのは、鈴木満さん(現・フットボールアドバイザー)の存在です。あの常勝鹿島を作った人が、ひとつの勝利について物凄く喜んでくれる。その姿を見たら、よし、またやってやろう、自分の力を出しきって行こうと思うのです。鹿島というクラブに与えてもらっているものが大きい。それをまたクラブに返さないといけない。優勝記録をひとつ伸ばすだけでは全然足らないと考えています」。

 なるほど。アントラーズの足跡を辿ったことが、結果的に大きな、モチベーションにつながった。では、と鹿島の歴史を学んでくれたポポにもちかける。広報の松本さんからのリクエストで次はサポーター、ファンを含む多くの人がポポの歴史を知りたいのではないかという、それを語ってくれないか? セルビア人は「もちろん」と首を縦に振った。

 ランコ・ポポヴィッチの記憶をたどり、その半生を巡る旅に出た。

 ポポが生まれたのは旧ユーゴスラビアのセルビア共和国にあるコソボ自治州(当時)。今でこそ、ユーゴについては、隣人同士が殺し合いをさせられた紛争のイメージがついて回るが、崩壊する前のユーゴは冷戦時代に米国、ソ連どちらの陣営にも属さない中立非同盟主義諸国のリーダーであり、多民族が共存する国家として国連などの国際機関に大きな存在感を見せつけていた。元国連事務次長の明石康氏は「1960年代を思い起こすと、ユーゴ大使が(国際平和を提唱する)国連主義を体現する者として本部の廊下を肩で風を切って歩いていた」という。ポポヴィッチの生まれ育ったコソボは、そのユーゴの中でも特殊な地域で、人口の大多数がアルバニア人で構成されており、セルビア人は少数派であった。自治州というのは、このアルバニア人たちに対してアルバニア語の民族教育などの自治権が公的に担保されたもので、初代大統領チトーの提唱する「友愛と統一」の精神に基づいたものであった。

 ポポは10歳から、本格的にサッカーを始めた。父の弟がサッカー選手で、ボスニア共和国にあるチーム、スロボダン・トゥズラでプレーしていたことも影響していた。入団を志したクラブは、家の近くにあったブドゥチノスト・ペーチ。ペーチはコソボ西部の町で、14世紀からセルビア正教会の総主教座が置かれており、セルビア共和国の学生たちがルーツの拠り所として修学旅行で訪問するような地域で、いわばセルビア人にとっての宗教的聖地であった。セルビア人の聖地でありながら、居住者はアルバニア人が多数派。その背景を反映するようにブドゥチノスト・ペーチも両民族の指導者と選手で構成されていた。ポポは両親から、「学業をおろそかにしないなら」という条件でクラブへの入団が許されたが、チームでは一番身体が小さかった。当時のユーゴリーグのクラブは世代的にU−15、U−18、トップと三つのカテゴリーしかなく、10歳で入団してもその体格差は埋めがたく、接触プレーではよく吹っ飛ばされた。ポポは今、こう振り返る。「カテゴリーが細かく分かれていなかったことで、年上とやれたことはよかったと思う。自分があきらめてしまったらおしまいだ。そのメンタルを学ぶことができた」

 あと一年でU−15のレギュラーを担えるという14歳になった年だった。最愛の父親、モミルが肺がんで亡くなった。家族のために労を惜しまず働く父で、質素な暮らしながら、多くの愛情を注いでくれた。ポポが自発的に薪割りなどの家事を手伝うと、欲しがっていたウサギを黙って買って来てくれるような父だった。妹と弟はまだ幼く、大黒柱を失ったことで、一家の生活は長男であるポポの双肩にかかって来た。将来は叔父(この時期には順調にトルコリーグのアンタルヤに移籍していた)のようなプロサッカー選手になるしかないという決意が、さらにここで固まった。

 最初のポジションはFWだったが、ある日紅白戦でリベロをやれと言われて後ろに回った。これがはまった。自分でも思いがけず、いいプレーができた。この時、初めてコーチに褒められた。「お前のおじさんもいい選手だったが、お前もできるじゃないか、と言われたのです。そのときの嬉しさといったら。もう40年以上前の出来事ですが、どこだったか、どんな天気だったが、どんな匂いがしていたか、今でも私はその褒められたシーンを昨日のことのように覚えています」。育成世代において指導者の言葉がどれほど重要であるか、身に染みた瞬間であった。

 ペーチの監督やコーチはアルバニア人であったが、セルビア人であろうが、マケドニア人であろうが、ロマの選手であろうが、民族を分け隔てすることなく指導にあたってくれていた。またそれが当時のユーゴスラビアであった。「ペーチの監督からは、本当にいろんなものを学ばせてもらった。ポリバレントな選手になれるようにからはじまって、いろんなポジションを試された。私がプレーする上で一番好きだったのはリベロだったが、見ていたコーチたちは、ボランチに特性があると言ってくれた。複数のポジションを経験したことは選手のみならず、自分が監督になってからも活きてきた」

 ここで知念のボランチへのコンバートについて言葉を繋いだ。「私は(柴崎)岳や知念のようなすばらしい技術を持った選手ではなかった。だが、ポランチはチームにおける心臓であるということを身をもって知っていた。言葉で説明するのは難しいけれど、このポジションに適性があるかどうかは、プレーを観察すると分かるのです。知念は戦術的な理解力、そして駆け引きの達者さが分かりました。アグレッシブさがあってデュエルの強さも段違いだった。練習でも相手との距離をただ詰めるだけではなく、ボールを奪いきるというのを意識してやっていた。彼は前線の守備でも寄せてコースを切るだけでよしとせずにマイボールを狙っていた。ただ知念のコンバートがうまくいった要因は、私のアイデア以上に彼が私の言葉を受け止め、迷わず前向きに努力してくれたことだ。彼はもう7年プロとして活動していたから、普通はボランチをやれと言われれば、腹を立てるだろう(笑)」。ポポのボランチへの執着は過去の仕事からも見て取れる。大分トリニータ時代には家長昭博を、東京で指揮をとったときは長谷川アーリアジャスールをこのポジションに配置転換させている。アーリアはこの時、当時の日本代表監督のアルベルト・ザッケローニに初代表に呼ばれている。「コンバートは私から選手へのリスペクト。決められたポジションしかできないと限界を決めてしまうのは失礼だと考えているからです」。

 ポポが在籍していた頃、ブドゥチノスト・ペーチはユーゴリーグの3部に属し、毎年昇格争いをしていた。当時のユーゴは28歳以下の選手は海外移籍を認められていなかったので国内リーグのレベルが驚くほど高く、20歳、21歳の選手が試合に出るのは並大抵のことではなかったが、やがて先発の座を確保した。「あの頃のユーゴリーグは間違いなく世界でもトップ5には入るリーグだった」。後に90年ワールドカップイタリア大会で活躍する若手も頭角を現していた。

 2歳年上のドラガン・ストイコヴィッチはレッドスター・ベオグラード(ツルヴェナ・ズヴェズダ)、2歳年下のロベルト・プロシネチキはディナモ・ザグレブですでに才能を周囲に認めさせていた。

 成人したポポは義務付けられていた兵役を首都ベオグラードで終えると、この都市のふたつのビッグクラブから、同時にオファーをもらった。すなわち、レッドスターとパルチザンだった。

つづく

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