「こびない、いじけない」冨永愛42歳がすっぴんで語った、コンプレックスだらけだった頃

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2024年10月03日 09:00  女子SPA!

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撮影 Yusuke Miyazaki
 トップモデル、俳優、チャリティ活動家としてカッコいい女性の代名詞となっている冨永愛さん(42)。昨年にはパリコレへの復帰やNHKドラマ『大奥』での主演も果たし、前進を続けています。

 そんな冨永さんの新刊『冨永 愛 新・幸福論 生きたいように生きる』(主婦の友社)は早くも3刷。カバー写真がなんと“最初で最後のすっぴん”で、その内容も半生をすっぴんにしたように赤裸々です。「こんなに叩き上げだったの?」と驚いてしまいました。

17歳で単身ニューヨークのファッション界に飛び込んだ話、モデルとしての成功、出産、離婚、日本での活躍――。

「コンプレックスの塊だった」という彼女が、それをバネに挑戦するさまは、縮こまりがちな日本人女性を励ましてくれるでしょう。

 同書の中から、冨永さんの原点とも言える、駆け出しモデル時代のエピソードをご紹介します(以下、『冨永 愛 新・幸福論 生きたいように生きる』より抜粋)。

◆若いときは生意気がいい。いい子になんてならなくていい

 以前、あるカメラマンが昔の私の写真を見てこう言った。「今回の写真には、この目が欲しいんだよね」と。それは20歳前後の頃に撮られた写真だったと思う。敵をにらむような、世の中全部を恨んでいるような、青白い炎を宿す目だった。

 カメラマンのリクエストに応えることはできたと思うけれど、私は知っている。もう二度と、あの目はできないって。あの目は、あの時だけのものだから。

◆右も左もわからない外国の街で、勝負に出た17歳

 初めてJ・F・ケネディ空港に降り立ったのは、17歳の春だった。日本のモデル事務所に所属していたけれど、私は当時のティーン誌にフィットするモデルではなかった。周囲の大人に「だったら海外に行ってみれば?」と言われて、「じゃあ、やってみようかな」と思った。いま思うと、めちゃくちゃ怖いもの知らず。

 海外での初めての仕事は、ニューヨークでの雑誌撮影だった。雑誌『ヴォーグニッポン』に掲載された制服にルーズソックスという姿の写真がきっかけで、私は世界の舞台に出ていくことになる。

 といっても駆け出しのモデルだ。順風満帆とは言い難かった。

 海外で活躍するモデルたちは、基本的にファッション・ウィークをまわることになる。これはニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノというファッションの主要都市で行われるファッションショー(コレクション)のことで、いわゆる「パリコレ」もその一つだ。各都市をグルグルとまわりながらショーが開催されるので「コレクション・サーキット」とも呼ばれる。

 コレクションに出演するためには、各ブランドのオーディションであるキャスティングを受けなくてはいけない。キャスティングはショーの1〜2週間前に行われるから、それまでに現地に飛ぶことになる。

◆ひとりぼっちでオーディションを受けてまわった

 私が初めてキャスティングに参加したのは17歳のときのニューヨーク・コレクションだ。あのときはもう、とにかく不安だった。

 エージェントがやってくれるのは、キャスティングのスケジュール調整だけ。「明日はここと、ここと、ここと、ここに行って」という指示が書かれたメモを渡されるが、誰もついてきてはくれない。ニューヨーク、ひとりぼっち。

 当時の私は英語力ゼロで、イエスとノーしか話せない。自動翻訳機なんてドラえもんの世界にしかなかった時代だ。話せないのはもちろん、聞き取れもしない。そんな状態で、たった一人で会場をいくつもまわってオーディションを受けるのだ。

 グーグルマップだって、もちろんない。ホテルで、前夜に紙の地図を広げて会場の場所を確認し、効率よくまわる方法を考えてから眠った。

◆負けない、負けるもんか

 多い日で1日に15カ所のキャスティングをまわる。だいたい、全部落ちる。翌日も受ける。また落ちる。ヒールの靴はバッグに入れてスニーカーで歩きまわっているのに、スニーカーさえボロボロになる。それでも、また落ちる。

 キャスティング会場での対応がまたひどい。大量のモデルをさばくのは大変なのだろうけれど、ブック(ポートレートなどをファイルした資料)を渡してもほとんど見てももらえず、「フン!」みたいな対応をされることも少なくない。無言で手をヒラヒラ振って「もう帰りなさい」みたいに指示されたこともある。

 彼らにとって、キャスティングを受けに来る若いモデルなんて、人間以下の存在なのかもしれない。でも私たちは、ちゃんと傷つく。傷ついた心を抱えながら、切り替えて、切り替えて、次の会場に向かう。

 負けない。負けるもんか。そんな思いばかりがどんどん強くなっていく。こびない、泣かない、いじけない。気持ちは常にファイティングポーズだった。

 それがよかったのかもしれない。初めてのニューヨーク・コレクションでは、13のショーに出演できることになった。これはかなりの快挙だったようで、事務所の人が目を丸くしていたのを覚えている。

◆初のラルフ・ローレンのショーでの「くっそー!」な出来事

 しかもその中に新人としては異例中の異例、ラルフ・ローレンのショーが含まれていた。正直、「あのラルフ・ローレン?」と舞い上がるような気持ちになった。

 でも、そのショーで私に用意されたのはラルフ・ローレンらしくない、スポーティーなアイテム。足元はスニーカー。周囲はみんなピンヒールのパンプスや、かっこいいブーツなのに、なんで私だけスニーカー? アジア人だから?

 正直、悔しかった。悔しければ悔しいほど、「絶対に負けるもんか!」という気持ちが湧き上がってきた。悔しさも不安も、全部エネルギーになってくれた。

 そのおかげか、翌日の新聞のコレクション情報では、私のスニーカー姿が一面を飾っていた。負けるもんか! の迫力が、実を結んだのだ。

 生意気だったなぁ。でも、生意気でよかった。反抗期のままでよかった。

 久しぶりにこうして昔を振り返ったら、自分が母みたいな目線になっていることに気づく。小さな愛ちゃん(いや、小さくはないか)に伝えたい。

 がんばってくれてありがとう。おかげで私は、40代のいまもまだモデルを続けることができているよ、って。

 そしていまでも、さほど丸くはなれないでいることも、ついでに教えてあげたい。

<文/冨永 愛>

【冨永愛】
17 歳でNYコレクションにてデビューし、一躍話題となる。以後、世界の第一線でトップモデルとして活躍。モデルのほかテレビやラジオパーソナリティ、イベント、俳優などさまざまな分野にも精力的に挑戦。俳優としては、2019 年放送のTBS日曜劇場『グランメゾン東京』をはじめ、 2023年から放送された NHK ドラマ10『大奥』では吉宗役として主演を務め話題となった。
日本人として唯一無二のキャリアをもつスーパーモデルとして、チャリティ・社会貢献活動や日本の伝統文化を伝える活動など、その活躍の場をクリエイティブに広げている。2024年4月、全国の伝統文化を訪ねる番組「冨永愛の伝統to未来」 (BS日テレ)がスタート。
公益財団法人ジョイセフアンバサダー、消費者庁エシカルライフスタイル SDGs アンバ サダー、ITOCHU SDGs STUDIO エバンジェリスト。
著書に『冨永愛 美の法則』『冨永愛 美をつくる食事』(ともにダイヤモンド社)、2024年6月28日発売 『冨永 愛 新・幸福論 生きたいように生きる』 (主婦の友社)ほか

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