『光る君へ』紫式部の娘・賢子、道長の息子たちとも…その恋多き半生

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2024年10月06日 15:01  日刊サイゾー

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まひろを演じる吉高由里子

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『光る君へ』第37回「波紋」では、藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)が書いた『源氏物語』の人気が宮中で確固たるものになりゆく中、久しぶりに清少納言こと「ききょう」(ファーストサマーウイカさん)が、何やらもの申したげな表情で再登場する様子も描かれました。

 お産で土御門第に宿下がりしていた彰子(見上愛さん)が宮中に戻るとき、一条天皇(塩野瑛久さん)へのお土産として、紫式部の原稿を清書し、製本する『紫式部日記』の記述をもとにした映像もありましたね。

 物語が美しい紙に、藤原行成(渡辺大知さん)など「能書家(=書の達人という意味)」の美しい文字で清書されていたので目を引かれた方は多いでしょう。しかしドラマ放送後の「紀行」においては、平安時代に作られた「装飾本」の実物――本願寺所蔵の『三十六人家集』の実物が登場し、その華麗さにはさらに驚いた方も多いのではないでしょうか。

 この作品の「料紙」として使われているのは、「継ぎ紙」です。文字通り、さまざまな色や材質の異なる紙を手や刃物で切って、ふたたび糊で継ぎ合わせて作られ、紙自体が完全に一点ものの高級品です。そのような料紙を使った写本はたんなる書物の域を超え、宮廷の粋人たちの総力を集結した「総合芸術」だったと考えるほうが正確でしょう。

 当時の上流階級における文学とは、作品の内容だけでなく、料紙やそこに書かれた文字、挿し絵などが醸し出す雰囲気を堪能し、場合によってはそれを誰か美声の者に読ませ、耳からも楽しむものでした。余談ですが、当時でも「黙読」はありました。平安時代後期に、話題の『源氏物語』を読みたいと願いながら成長した女性が、物語の実物を入手すると、昼夜を忘れて読みふけったという記述が菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『更級日記』には出てきます。

 ドラマには天皇・中宮主催による朗読会という形での登場でしたが、『紫式部日記』にも、一条天皇が側近の女房に『源氏物語』を朗読させながら「この作者は『日本書紀』の講義をするべきだね。学識がおありだ」という感想を漏らしたことが書かれています。8世紀初頭に成立し、独特の和製漢文で書かれた『日本書紀』(ドラマには当時一般的だった『日本紀』の呼称で登場)は、平安時代にもなると「一般人の手には負えない難解な書物」という扱いでしたが、宮廷人の間では重視されていました。

 平安時代前期には、数十年に一度のスパンで、『日本書紀』の購読会――つまり「日本紀講筵」が宮中の公式行事として行われた記録があります。しかし、それも10世紀後半には廃れてしまいました。それから百数十年後の生きる「文学好き」の一条天皇としては、かつては一流の男性学者が担当していたという『日本書紀』の講義を紫式部にまかせてみようか……と思ったらしいのですが、それは残念ながら実現しませんでした。

 紫式部は天皇の思いつきをきっかけに「日本紀の御局」などというニックネームを与えられたことを『紫式部日記』ではひどく嫌がって見せています。「漢文は男にも難解だとされるものだから、女の私が『日本書紀』の講義などしたら、どんな悪口を言われるかわからない」というのが彼女の本音でしょうか。同性からは「でしゃばり女」と陰口を叩かれ、男性からは「とっつきにくいインテリ」という目で見られるのは嫌だ、というところでしょう。「認められたい」という気持ちは強くあるのですが、実際に自分に強いスポットライトが集まるのは避けたいという紫式部の矛盾する心の揺れには、いわゆる「陰キャ」独特の葛藤が見られて興味深いのです。

 そういう紫式部の葛藤とは無縁だったと思われるのが、彼女の娘の大弐三位こと賢子(梨里花さん)なのですね。前回のドラマでは実家に久しぶりに宿下がりした紫式部と、娘・賢子の反目が描かれました。まるで久しぶりに田舎の実家に戻った大学生のようで面白く拝見しました。

 東京の大学に進学した学生が長期休暇に地方にある実家に戻り、東京での生活を語ると、それがただの自慢話に聞こえてしまうのはよくあることですね。それと似たシチュエーションが、紫式部の宿下がり中に発生したとしても、おかしくはありません。

 しかし史実の賢子が、ドラマの賢子のように宮中のあれこれを語る母親に距離を感じるようなことはなかった気はします。おそらく史実の賢子は、母親の自慢話を嬉しく聞いて、自分もそこに行きたいと願う娘だったのではないでしょうか。

 エッセイストの故・近藤富枝氏も「賢子は現実的で、享楽派で奔放であった」と評していますが(『紫式部の恋』)、紫式部の娘の賢子は、華やかな人柄で知られた藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の遺伝が強く出ているとよくいわれ、その証拠として、彼女に何人もいた恋人男性の名前が挙げられるのです。史実の紫式部はドラマとは違って、道長(柄本佑さん)との関係も日記で「匂わせ」する程度にとどまっていたようですし、宣孝と結婚する以前も、彼が亡くなった後も、具体的な関係を噂される殿方の名前は誰ひとりとして伝わっていません。

 紫式部の晩年には、娘の賢子も中宮・彰子に女房としてお仕えするようになっていましたが、若い頃に道長の次男・頼宗(上村海成さん)、五男・教通(のりみち・吉田隼さん)という「色好み」で知られた貴公子と出会い、かなり親密に付き合った形跡があります。

 賢子は頼宗に対し、次の熱烈な和歌を送りました。

「恋しさの 憂きにまぎるる ものならば またふたたびと 君を見ましや」(憂鬱な日常を恋でまぎらわせることができるものなら、何度でもあなたに会いたくなるわ)。

 本命の女性を定めず、フラフラしている意中の男をなんとか自分の側に引き寄せようとしているのが伝わるような歌ですね。実際に頼宗は、賢子同様、母親のツテを頼って宮中に出仕してきた和泉式部(あかね、泉里香さん)の娘・小式部内侍にも惹かれていたようです(二世芸能人ならぬ、二世女房の存在が当時の宮廷では重視されたのは興味深いですね)。

 ちなみに古代日本では認められていても、平安時代ではすでに異母兄弟姉妹の間の恋愛は禁止項目になっていましたから、ドラマのように賢子の実の父親は道長だったということは実際にはありえないと考えられる理由でもあります。

 史実の紫式部と賢子の母子関係は明らかではありませんが、ドラマほど賢子は気難しくはなかったと思われます。

  後年、賢子は道長の亡き次兄・道兼(玉置玲央さん)の長男・兼隆の妻の1人となって、娘(氏名不詳)を授かります。しかし、賢子はその直後に親仁親王(のちの後冷泉天皇。端的にいうと彰子の孫)に抜擢されて忙しくなり、兼隆とは次第に疎遠になってしまいました。それでも兼隆は賢子が産んだ娘を大事に養育し、娘はのちには源良宗という貴人の正室にもなっているので、円満離婚だったのではないでしょうか。ある意味、現在以上に多様な夫婦関係があり得たのが平安時代の貴族社会だったのです。

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