32歳で完全に視力を失い…難病を患っても医師になった理由「限定的な視野に縛られていた」

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2024年10月10日 06:00  ORICON NEWS

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福場将太さん
 視力を失った全盲の状態で患者と向き合う医師、福場将太さん。北海道美唄市で精神科医として従事する彼は、徐々に視野が狭まる病によって32歳で完全に視力を失った。それでも10年以上にわたり、患者の心の病と向き合っている。福場さんがいずれ失明すると分かりながらも医師を目指し、患者の心の中に潜む悩みや苦しみに寄り添う理由は何か。初の著書『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成して紹介する。

【画像】目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと

■「目が見えなくなるのに、医師を目指す意味があるのだろうか」

 「君の眼は、いずれ完全に見えなくなるかもしれない」。新たな運命の歯車が回り始めたのは医学部5年生の頃。白衣に身を包み、患者さんの実際の治療を見学する臨床実習中に病気が見つかりました。

 臨床実習では、1年かけて内科、外科、産婦人科……、と全ての診療科を回っていきます。「その時」が来たのは、眼科を回った時でした。診察手技の練習で私の目を覗のぞいた指導医の先生が、私の眼に異変を見つけ、病気が発覚したのです。

 病名は、網膜色素変性症。徐々に視力が低下していき、時には失明に至ることもある指定難病疾患。教科書でその症状を調べてみると、幼少期の記憶に思い当たる節がありました。

 例えば、暗いところで見えないという「夜盲症」。思えば、学芸会で舞台が暗転した時、あるいはキャンプファイヤーで火が消えた時、周りのみんなは暗がりの中でもスタスタと歩いていました。ところが私にとってそこは深く真っ暗な森に迷い込んだような感覚を覚える場所。一寸先を認知することができず、うまく歩くことができませんでした。

 そして、見えている範囲が狭いという「視野の狭窄きょうさく」。他の人の視野がどんな広さかは知りようがないので気づくことができませんでしたが、今思えば野球をやってもボールがすぐに視界から消えてしまってバットはいつも空を切るばかりでした。

 サッカーをやっても、どっちが敵のゴールかすぐに見失っていました。まあこれはただ単に運動音痴だったのかもしれませんが……。

 「治療法はない」

 網膜色素変性症について教科書で調べると、そう書いてあり、驚きました。ただその頃は眼鏡をかければ問題なく見えていたこともあり、「症状は個人差があるから、まあ何とかなるだろう」と楽観的に考えていたのです。ところが不思議なもので、診断がつくとまるでドミノ倒しのように、みるみる視力の低下が進みました。

 1年後にはいよいよ手元の教科書の文字が見えにくくなってきました。そんな中、医学部6年生は一番勉強しないといけない学年。それはもちろん、目の前に国家試験を控えているからです。しかし勉強は捗はかどりません。教科書やテスト問題が見えにくいという物理的な理由もありましたが、それ以上に、私を勉強から遠ざけたのは私の心の問題でした。

 「目が見えなくなるのに、医師を目指す意味があるのだろうか」。そんな思いが頭をよぎるようになり、だんだん勉強に気持ちが入らなくなっていったのです。

1年後の自分の状態がどうなっているか分からない。
5年後、10年後はもっと分からない。
そんな状態で、医師を目指して何になる?

 ぐるぐると思考の迷路に迷い込んでいた状態ですから、なんとか卒業はできたものの国家試験はめでたく不合格となりました。

 さぁ、これからどうしたものか。途方に暮れる気持ちはもちろんありました。ただ、その一方で、不思議な気持ちが私のもとに訪れました。まさかの解放感です。

 国家試験に落ちたことで、突然人生がフリーになったと言いますか、決められたレールから外れることができたと言いますか、奇妙な感覚に包まれたのです。医学部に入ったことでいつのまにか「医師以外の可能性」が見えなくなっていたのでしょう。皮肉なことに、目が悪くなったことで、医師以外の無数の可能性の扉が目の前に現れたようにも思えたのです。

 そんなわけでそこからの1年間は、国家試験再挑戦を目指す予備校生をしつつ、とにかく色々な扉をノックしながら人生を探す時間となりました。

会いたかった人に会いに行く。
音楽仲間と野外ライブをやってみる。
大好きな番組にネタを投稿してみる。
小説を書いてコンテストに応募してみる。
インターネットラジオ局でDJをしてみる。

 医学部を飛び出して見た世界は、実に色とりどりでした。そしてこれまでの生き方では出会えなかったたくさんの人たちに出会いました。アマチュアの音楽イベントに出ている人の中には、平日は会社員、休日はミュージシャンという2つの顔を持つ人がいました。また、侍の恰好で刀を振り回しながら歌うあの人も、歌い終えると優しい笑顔で子どもと遊ぶ、お父さんであることが分かりました。

 生き方は十人十色。そして1人の人間の中にも多様な生き方が内在している。新たに訪れた世界でそう実感した私は、これまでいかに自分が限定的な視野に縛られていたかということに気づかされました。

 色々な扉をノックしながらも、本来一番目指していたはずの医師への扉を叩くことを私は躊躇していました。「将来目が見えなくなれば医師を辞めなきゃいけない」「どうせ途中で辞めるなら、最初からやらないほうがいい」そんな思いを抱えていたからです。

 これは、一生続けられないのなら意味がない、という実に限定的なものの見方によるものだと言えるでしょう。

 さまざまな世界でさまざまな生き方を見たことで、「人生は一本道じゃない。行けるところまで行ってみて、ダメになったらダメになったで、また別の道を探せばいいじゃないか」そう思えるようになりました。そして医師への扉も選択肢に入れた上で、まっすぐに自分の人生と向き合い、開く扉を決めることができました。

 答えは「やっぱりもう一度全力で国家試験を受けてみよう!」でした。

 全力でぶつかってみて開かなかったのならしょうがない。その先の道をどこまで行けるかは今の時点では考えず、目が見えているうちにとにかくやってみよう。こうして仮の姿の浪人生から本物の浪人生になった私は、勉強と並行して間違えずにマークシートを塗る猛練習を行い、国家試験に無事リベンジ。扉を開いて、その先にある医師の道を歩み始めたのです。

■福場将太(ふくば・しょうた)
1980年広島県呉市生まれ。医療法人風のすずらん会 美唄すずらんクリニック副院長。広島大学附属高等学校卒業後、東京医科大学に進学。在学中に、難病指定疾患「網膜色素変性症」を診断され、視力が低下する葛藤の中で医師免許を取得。2006年、現在の「江別すずらん病院」(北海道江別市)の前身である「美唄希望ヶ丘病院」に精神科医として着任。32歳で完全に失明するが、それから10年以上経過した現在も、患者の顔が見えない状態で精神科医として従事。支援する側と支援される側、両方の視点から得た知見を元に、心病む人たちと向き合っている。また2018年からは自らの視覚障がいを開示し、「視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる」の幹事、「公益社団法人 NEXTVISION」の理事として、目を病んだ人たちのメンタルケアについても活動中。ライフワークは音楽と文芸の創作。

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