結成50周年「紙ふうせん」、「赤い鳥」でヒットも解散「音楽性より生き方の違いやろ」/連載3

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2024年10月17日 05:01  日刊スポーツ

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笑顔で写真に納まる夫婦デュオ「紙ふうせん」の後藤悦治郎(左)と平山泰代(撮影・江口和貴)

「冬が来る前に」などで知られる美しい歌声の夫婦フォークデュオ、紙ふうせんが11月8日に東京・南青山マンダラで、デビュー50周年記念ライブ「紙ふうせん in MANDALA〜懐かしい未来〜」を開催する。結婚50周年、金婚式を迎えた後藤悦治郎(78)と平山泰代(77)に、その軌跡を聞いた。【小谷野俊哉】


◇◇  ◇◇


2人で始めた音楽活動は、やがて人数が増えて5人組の『赤い鳥』になる。


後藤「兵庫県の尼崎市で町の有志が集まって、コンサートというか、1部が桂米朝さんのお弟子さん、それから2部でフォークソングという公演をやりました。僕、あっちゃこっちゃに呼びかけましてね。桂米朝さんには直接会いに行って。町の公民館が3丁目にあって、4丁目に米朝さんが住んでてね。こういう町のコンサートやるんで、ひとつ若手の落語家の落語を聞かせてもらえませんかということで。米朝さんもすぐOKしてくれて、いいことだ、やんなさいということで」


2部でコンサートに上がるのは、関西の大学でフォークソングを歌う若者たちだった。その後、世に出る、まだ何者でもない若者たちだった。


後藤「関西フォークソング連盟を作っていて12校ほど加盟してたんで、そこへ全部呼びかけんです。尼崎の町のそこで毎月やるからって言ったら、みんな集まって来て7、8バンドが常にいましたね。その町内にあった僕の家の前には、大村崑ちゃん夫妻が住んでいました。崑ちゃんの奥さんが歌好きで、シャンソンが好きなんで、じゃあ一緒にやりませんかいって、そのコンサートに呼び込んだりしてね」


そこから、輪は広がった。


後藤「そんな感じでやっているうちにメンバー同士の交流が深まってきて『赤い鳥』ができたんです。その周りに、後のアリスの谷村新司君とかもいた。谷村君は7人ぐらいのバンドを組んでて、その中にハイ・ファイ・セットに行った山本潤子、当時は新居潤子がいて『赤い鳥』に入りました。谷村君は、歌作りがうまかった。僕らにはできないことが、彼はもうできてたからね」


女性2人、男性3人のフォークグループ、赤い鳥は71年に「竹田の子守唄」「翼をください」をヒットさせる。1970年(昭45)にプロデビューした赤い鳥は、74年の8月に解散。メンバーは紙ふうせんとハイ・ファイ・セットに別れた。


後藤「音楽性の違いというか、生き方の違いやろうね。音楽性の違いなんてね、好きな音楽やるのに変わりはないからね。どんな音楽やろうが、それはいいんですけど、やっぱり生き方だと思いますよ。僕は、暮らしも音楽も一緒であって欲しかった。ものの考え方も音楽的でありたかった。音楽がビジネスになってもいいんですけど、自分でストックできないぐらい忙しいのはビジネスであって、音楽はそこに入れてはいけない。だから細く、長くがいい。太く、短くガンガンやるのはつぶれるぞって言ってました。もう2年目には、みんなに言いましたね」


(続く)


◆紙(かみ)ふうせん 後藤悦治郎(ごとう・えつじろう)は1946年(昭21)4月29日、兵庫県尼崎市生まれ。京都外大卒。平山泰代(ひらやま・やすよ)は47年3月28日、広島市生まれ。武庫川女大卒。兵庫県立尼崎北高の同級生。69年に5人組フォークグループ、赤い鳥を結成。71年に「竹田の子守唄」「翼をください」がヒット。74年5月に結婚。同年9月の解散後、2人で「紙ふうせん」結成。77年11月リリースの「冬が来る前に」がミリオンヒット。

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