西田敏行さんが見せたインタビュー中の涙、健康面、地元福島、演技論…13年前の肉声紙面を再録

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2024年10月17日 18:02  日刊スポーツ

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日刊スポーツ

2011年6月12日の日刊スポーツ紙面から

俳優西田敏行さんが都内の自宅で亡くなったことが17日、分かった。76歳だった。


西田さんは1963年に地元・福島の中学を卒業後に上京し、70年に劇団青年座に入団。映画「釣りバカ日誌」シリーズなど数多くのドラマや舞台で幅広く活躍した。


西田さんは11年6月11日公開の映画「星守る犬」(瀧本智行監督)で主演を務め、家族と離れ飼い犬の秋田犬ハッピーと旅に出る「お父さん」を演じた。日刊スポーツでは同年6月12日掲載のインタビュー紙面「日曜日のヒーロー」で「涙ぽろり 西田敏行 本音もポロリ」との見出しで、西田さんの肉声を届けた。自身の健康面や85年の阪神セ・リーグ優勝について語った際に涙を流し、故郷福島や演技論についても語った。当時の紙面を再録する。


◇  ◇  ◇  


主演舞台「写楽考」で脚光を浴びてからちょうど40年になる。俳優西田敏行(63)。人情味あふれる演技で、見る人を笑わせ、ほろりとさせる。バラエティー番組では涙もろい一面も見せ、取材中も85年阪神タイガース優勝の話になると涙がポロリとこぼれる。故郷福島への思い、家族への思いを語り、演技同様、人柄も人情味があふれていた。


◆原作新幹線で読み『うぅ』


見る人を泣かせ笑わせ40年。新作の主演映画「星守る犬」(滝本智行監督)では、家族と離れ飼い犬の秋田犬ハッピーと旅に出る「お父さん」を演じた。「泣ける映画」と話題の作品で、西田ワールド全開だ。


「原作の漫画を新幹線の中で読みましたが、だめでしたね。周囲の人もいるのに『ううっ…』って。新横浜から乗ったのですが、浜松でピークでした。完成した映画を見たときも、自分が出てて(内容が)分かってるのにね、号泣しましたね。ハッピー1人の芝居は知らなかったので『こんなことしてたんだ』と思ってね…」。


子供のころから犬が好きだった。最大時に十数匹の犬を飼っていた。


「秋田犬は孤高な性格で寡黙でね(笑い)。あまりほえないんです。撮影中もほとんどほえなくて、ほえるシーンで初めて『ワン』という声を聞いたとき『こいつ、こんな声してるんだ』って、また胸がキューンときちゃって。僕が飼ってた犬も、寡黙なタイプが多かったので、少年のころを思い出しましたね」。


◆ビールぐらい飲まないとやってられん


劇中の「お父さん」は心臓に病気を抱えている設定だ。西田も03年、心筋梗塞で倒れ入院した。


「たばこはやめました。1日100本近くショートホープを吸ってました。今思えば、心筋梗塞になりますよね。それまでは『おれは絶対、死ぬなんてことはありえない』とどこかで思ったんですけど、心筋梗塞になって初めて『寿命はあるし、ちゃんと死ぬんだ』と教わりました。ICUで意識が戻ったときに、娘2人と女房が手を握ってました。これを見た時に『家族ってありがたいな』とつくづく思いました」。


療養中は仕事をキャンセルせざるを得なかった。


「これぐらいの迷惑をかけるんだと。それまでは夜中に焼き肉を食べて、飲んで、たばこ吸って『芝居はよ〜』としゃべって。それがもろくも崩れちゃいましたね」と振り返る。


1カ月ほど前、西田が夜に酔って帰ってきた際、出迎えた妻がこんこんと説教した。「玄関先でずっと20分ぐらい説教されて、もう、中に入れないんですよ。『本当に、あなただけの命じゃないんだから』と切々と言われて。その時、ちょっと調子こいて『断酒します』とか言っちゃったんですけど、今、ものすごくビール飲みたいんですね(笑い)。今、節電とかうたわれてますから、もう、ビールぐらい飲まないとやってられないですよ(笑い)」。妻の説教を素直に聞けたのは、家族のありがたみを痛感する同映画に出演したことも大きかったという。「すごく真剣に暴飲に怒っているけど、自分のことを思ってくれてるという裏付けを感じましたからね。今のところ、断酒してますが『禁酒に変えて、その後節酒に変えていいですか』という感じです」。


◆ぺっぺっ言ってて大丈夫かと上京


故郷は福島。幼いころ、映画好きの両親が、毎週のように映画館に連れて行ってくれたことがきっかけで、役者にあこがれた。「おやじは邦画専門、おふくろは話題になった洋画が好きでした。5歳の時、母親に連れて行かれた映画が少年がバイオリンを弾くストーリーで。僕がものすごくのめり込んで見ていたら、おふくろは錯覚して『バイオリンが好きなのかな』と思ったらしい。翌日、家にバイオリンがあったんですよ(笑い)。『習ってみる?』と言われて、キーキー弾いてたんですけど、3日で嫌になっちゃって」。


役者を夢見た少年は、福島弁を直そうと高校は東京の学校に進学した。「バイリンガルになりたいと思ったんだろうね。映画を見てるときれいな標準語でね。『ぺっ、ぺっ、ぺっ、ぺっ』って言ってて大丈夫なのがい? 早ぐ、この『ぺっ』から解放されて、『だよね』って言いたいと。田舎では『だよね』とか言うと『何、おめえ』って言われちゃいましたから」。


上京した当初は故郷の言葉はなかなか抜けなかった。むしろ、どんどん出てきた。高校では級友に笑われ、軽い登校拒否になった。「通学の電車で山手線に乗っていくと上野に着くわけですよ。その当時は、東北の玄関口でしたから、上野に行きたいという気持ちがあって。上野に行くとまた、東北から来た人たちの言葉が聞こえてきて、それこそ『ふるさとの なまりなつかし』ですよ。啄木の心境が分かりますね」。


上野動物園にも足を運んだ。そこで出会ったのがローランドゴリラのブルブル(97年死亡)だった。「ブルブルの説明で『アフリカ生まれでアフリカから来ました』って書いてあったんですよ。それで僕も『福島生まれで福島から来ました』みたいな気持ちと重なって。ブルブルは他のゴリラと違って、動きもね、座ったままずっと空を見上げているんですよ。それを見ていて『こいつも今、望郷の念にかられているのかな』と自分の思いが重なって、ブルブルに無性に会いたくなるんですね。だから、学校をサボってよく行きました」。今でも写真を事務所に飾ってあるという。


◆原発に揺れる故郷福島の海思い…


今、故郷の福島が原発事故で揺れている。映画のロケ地になった福島・永崎海岸も撮影前とは状況が一変した。海岸は、西田が小学生のころ、臨海学校に行った思い出の海でもある。


「津波の被害もあるし放射性物質の流出によって、おそらくあの海岸は、今年の夏は子供たちが泳げる状態ではないと思います。現状を見てると、楽観的にはなれないですよね…」。


震災後、福島の友人に会いに行った。「『孫がよ、いつまでここに置いといていいのか分かんない。どっが行きてぇと思っちゃうよ』と。福島県民はみんなそういう心境にいます。何を信じていいか分からない。僕も、福島出身のサンボマスターとか、みんなと連携して、いろんなイベントもやっていきたいなと思ってます」と寂しそうに故郷に思いを寄せた。


◆85年阪神V 神宮で号泣


福島出身だが阪神タイガースの大ファンだ。「新選組だったら、近藤勇より土方歳三の方が好きだったり『巨人、大鵬、卵焼き』と言うんだったら『阪神、柏戸、目玉焼き』みたいなところがあったんです」。


85年、阪神リーグ優勝の際、神宮球場にいた。「あの時の号泣は忘れません。優勝が決まったとき、今は亡くなった私設応援団長さんが一塁側から三塁側までずっと走ってきて『阪神タイガースファンの皆さま、21年ぶりの優勝、おめでとうございます』とポケットから紙吹雪を出したんですよ。今でもダメですね…。思い出すと…」。ハンカチを取り出しあふれた涙をぬぐった。「甲子園でのヤクルト戦で『ヤクルト帰れ』とか言ってたんです。もう、これは絶対に言うのはやめようと思いました」。


◆貧乏もファッション 楽しかった


役者生活40年以上。子供のころの夢がそのまま実現した。「自分の中ではうまがあった生き方だったんですよね。子供のころに言ったことをやれているんだという幸福感はあります」。青年座に入った当初はお金がなく、友だちに電話をするための10円玉をアパートの部屋中探し回ったこともあった。当時の暮らしも「貧乏でお金がないこともファッションという感覚で楽しく過ごしましたから。苦労という実感はあまりないですよね」と笑って振り返る。


「泣くも笑うも、全部ね、人間の持ち合わせている感情の中で、自分のなす行為というか演技、芝居によって刺激されたらステキだなあといつも思ってるんです。笑っていただくことも、泣いていただくことも全部含めて、肉体を通した表現で感じてもらえたらと思う。どっちかというと、アクターよりコメディアンの意識の方が強いので、そっちの方向に自分を持って行きたいなと思います」。


今年も新作映画が続々と決まっている。演技も素顔も人間味があふれる。西田はこれからも茶の間を笑わせ、泣かせてくれるだろう。【岩田千代巳】

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