「全てわからせる必要はない」映画監督・黒沢清、脚本制作で意識することーー自著『Cloud Book』を語る

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2024年10月19日 13:00  リアルサウンド

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黒沢清監督の最新作『Cloud』。シナリオやサントラが収録される「Cloud Book」が発売中

 日本が誇る鬼才・黒沢清監督による最新長編映画『Cloud クラウド』が、現在公開中。第81回ヴェネツィア国際映画祭、第49回トロント国際映画祭、第29回釜山国際映画祭などで各国の映画祭で上映され、第97回米国アカデミー賞国際長編映画賞日本代表作品にも選出された注目作だ。



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 公開に合わせて、本作のシナリオとサウンドトラックCDを収録し、黒沢監督と劇伴を手がけた渡邊琢磨のインタビューを収録した「Cloud Book」が9月30日に発売。その発行を記念し、黒沢監督へ脚本についてじっくりとお話を伺った。


◼️脚本は「全く勉強していないんです」いまの制作スタイルにたどり着くまで


――『Cloud クラウド』の脚本を書き始めてから撮影に至るまでには、どれくらいの年月を要したのでしょう。


 何度か書き直しているので、最終稿に至るまでには2〜3年かかったのではないかと思います。


 元々あった「ガンアクションをやりたい」というものや主人公の人物像はそこまで変わらず、襲ってくる人たちの設定が何度か変わった記憶があります。


――ちなみに、黒沢監督が初めて触れたシナリオには、どういったものがありますか?


 今ではあまり考えられませんが、昔は映画の雑誌に外国映画のシナリオが日本語で載っていたのです。恐らくそれで『ワイルドバンチ』のシナリオか何かを高校生ぐらいのときに読みました。熟読したというよりは、映画にはシナリオというものがあることを知っていたけれど、こういう風にセリフとト書きでシーンごとに分かれているものを書くのだなと知った、といった程度でした。


――黒沢監督はご自身で映画を作られる際、いまお話しいただいた『ワイルドバンチ』の脚本などから勉強をされて臨んだのでしょうか。


 それが、全く勉強していないんです。基本的に自分が書く脚本というのはあくまで自分が撮るための準備物なので「ひどいものですがこれで許してください」という気持ちで書いています。


――『トウキョウソナタ』や『スパイの妻』ほか、他の方が書いた脚本を託される場合は、違いがあるものですか?


 僕の場合は知り合いや学生に書いてもらう時は、それを基にしてもう一度自分で書いています。例えば「ここのセリフはちょっと違うよね」「このシーンはこう変えたい」「順番をこう入れ替えるのはどうだろう」といった具合に。


 ですので人が書いたものをそのまま「これをどう撮ろうか」と頭を悩ませることはなく、人が書いたものであってもそのまま使えるものはそっくりそのままいただき、てにをは含めて自分のスタイルにすべて書き直すところからスタートしているのです。そのため、人が書いたからどうだということはあまり気にしていません。


――ちなみに、脚本執筆時にビジュアルイメージは浮かんでいるものでしょうか。


 シーンにもよりますが、ほとんどの場合はどんな映像になるかわからないまま書きます。ロケ地も俳優も決まっていないものですから、実際わからないのです。他の方がどのように書かれているかよくは知りませんが、例えばシーンの「柱」に「家」や「道」「室内」と舞台を書きますよね。あれは適当です。何も書いていないのも不親切なので入れておく、というぐらいです。時間設定に関しても。気分的に夜だよなという感じです。いざ監督するとなったときに「昼でもいいな」と変えてしまったり、スケジュールの都合に合わせたりして自由に変えてしまいます。


――いまのお話だと、黒沢さんの中で「脚本」と「監督」は連結しているというより、割と分かれていてスライドしていくような形なのでしょうか。


 そうですね。昔はもう少し気合を入れて、映像を思い浮かべて具体的に色々指定しながら書いていた時期もありましたが、そうした所でほとんど実現できないし書いても空しいのです。或いは書いたとおりにこだわると全然うまくいかなくて、1回捨てて目の前にあるもので対処したら実にうまくいったということも経験して、ある年齢になってから脚本は脚本で割り切って書き、監督となると切り替えることができるようになりました。


◼️“映画を作りたい”という欲望「監督と脚本はなかなか分離しづらいもの」


――脚本家や監督を目指す方々が本書を購入される場合も多いのではないでしょうか。


 僕にはそれがとても不思議です。というのも、若くして映画を作りたいと思う人は「脚本」とか「監督」といったものではなく、全てが同時だと思うから。「映画を作りたいけれども、監督や脚本だけしたいな」と思うのは、よほど変わった人なのではないかと思います。


 僕が若いときは脚本も監督も撮影もやりたかったし、それが映画を作りたいという初期の欲望なのではないかと思っています。人によっては主演俳優もやりたいという方もいますしね。カメラと俳優を同時にやるのは相当高度な技術を要しますが、プリミティブな欲望としては全てが同時かと思います。そこをスタートにして「なかなか一人ではできない」という現実に直面して「俳優は誰かに任せよう、カメラは友だちにお願いしよう」と別れていくものですが、監督と脚本はなかなか分離しづらいものだというのが自分の考えです。


――確かに。原初にあるのは「映画を作りたい」ですもんね。


 そうなんです。ただ、商業映画のシステムとしては監督と脚本を分けようとすることが多いように思います。その理由は、脚本を書く時点では割と時間的に余裕がある場合が多いし、書くだけならさほど経費も掛からないけれど、監督となるとスケジュールと予算が決まっているから。短期間のうちに一気にやらないといけないものなので、全く違うシステムで動く脚本作りと監督を同じ人がやるのはレアなケースかと思います。脚本家はプロデューサーとじっくり時間をかけて脚本を書いて、一方で監督はバタバタと撮っているものですから、商業映画では別れた方が効率がいいのです。僕はなぜか自主制作で全部自分でやっていた頃のまま、自分の映画はほとんどの場合に自分で脚本を書く・人の脚本であっても自分でリライトする…といった感じで、今まで来てしまいましたが。


――そんな黒沢監督にとって、『Cloud』のシナリオブックが発売されるのはどんなお気持ちなのでしょう。


 シナリオブックを読まれた方は映画そのものもご覧になっていらっしゃるでしょうから、こういうところが同じなんだ、ここは全然違うじゃないか、字面としては一緒でも画で見ると印象はまるっきり違うんだなといった具合に、映画を作るということの複雑さを感じ取っていただければ、それはそれで有意義だなとは思います。


 僕は先ほど「脚本は設計図」と申しましたが、一方で脚本はまずはプロデューサーや俳優といった他者に読んでもらうために書くものなので、人に読まれても恥ずかしくないように読み物としてちゃんと面白く、面白い映画を撮ろうとしているんだなということを分かってもらえるように――ということは心がけて書いています。ただ、小説のように読もうとしても、決して楽しいものではないかと思います。


◼️まず"大きな構造"を学ぶべし「プロットを完成させるのが最重要項目」


――先ほどお話に挙がったように「柱」があったり、セリフとト書きで構成されているものですから読む側にもある種の技術が要りますよね。レイアウトも独特ですし。


 僕も漫然と伝統的な書き方に沿っていますが、もちろんあの通りである必要はありません。僕の知っている限りだと、伊丹十三さんの脚本は柱もト書きもセリフも全部一直線に揃っています。どれがどれかはパッと見わかりづらいのですが、読み物としては読みやすいのです。そうした工夫をされている方もいらっしゃいます。


――国内外の脚本を兼任される監督にお話を伺うと、例えばプロデューサーなどに「わかりづらい」と言われてしまうご苦労を抱えている方が多いなという気がします。


 僕の場合は「何がわかりづらいのか」をよく確かめるのと、「それは本当にわかる必要があるんだろうか」ということは真剣に考えます。『Cloud』の場合はありませんでしたが、「主人公が次のシーンでなんでこんなことをするのかよくわからない」と言われることは結構あります。


 そういう時に「何かが足りていないのかもしれない」と反省する場合もありますが、わからないから面白い場合も当然あります。これまで、「どうして罪を犯すのか動機が全然わからない」と言われることもありましたが、わからせる必要がないこともあると思います。例えばヒット作『羊たちの沈黙』の中で、レクター博士の犯罪の動機は描かれていませんよね。それが面白いんです…なんて、ハリウッド映画を例に出して「動機を描いていなくても十分面白い娯楽映画はたくさんあります」と説明して、切り抜けてきました。


――黒沢監督が「この脚本は面白い!」と思う作品には、どのようなものがあるのでしょう。


 脚本というよりも「プロット(作品の概要を数ページにまとめた脚本の前段階)」という方が僕にはピンとくるのですが、「本当によくこの構造を思いついたな」と思うのは『ローマの休日』です。


 多くの人は本作を「王女様が自分の身分を隠してローマでひと時の冒険を愉しむロマンチックな話」と説明するでしょうし、それが売りかとは思いますが、あの作品は同時に「ジャーナリストが自分の身分を隠す」物語でもあります。遊んでいる王女の記事をすっぱ抜くために、身分を隠して近づく話であり、実はそちらがメインなんですよね。王女が身分を隠す話から、ジャーナリストが身分を隠す話によくぞスライドさせたなと、本当に見事なプロットと感じました。ちなみに、本作の脚本を読んだことはありませんが。


――非常に共感します。お互いに身分を隠しているからこそ、ラストの視線の交わし合いがとても感動的なものになっていると感じます。


 そうですよね。大体面白い映画、不朽の名作と呼ばれるものは当然脚本も優れているものばかりと感じます。僕自身、面白い!と思う作品に対してプロットが素晴らしいのだろうなと思う時はあれど、脚本・映像・俳優のここが良いから面白いのだ、と切り取って観ているわけではありません。海外の作品ですと字幕で観るわけですから細かいセリフに関してはわかりませんしね。


 きっと皆さんもそうでしょうが、「よくぞこの構造を思いついた!」というのは映画を観ていればわかるものでしょうから、そこが映画を志す人の第一歩だという気はします。脚本うんぬんよりもまずは「大きな構造を学ぶこと」――これは後々の脚本作りにもきっと役に立つかと思います。僕自身、最も時間がかかるのはやはりプロット作りです。これで脚本になるな、というプロットにたどり着くまでが一番大変ですね。細かいセリフなど、最終的には色々と詰めなくてはいけませんが、特にオリジナルにおいては「このプロットで行ける」というものが見つからない限りいつまで経っても先に進めませんから。自分にとっては、プロットを完成させるのが最重要項目になります。


◼️整合性が取れていれば、分からせなくても「自信を持っていい」


――先ほどの「動機のわからなさ」は『CURE』から『Cloud』に至るまで、黒沢監督が一貫して描き続けてきたものかと思います。同時に「全てをわからせなくていい」は、脚本を書かれる方にとって救われるものではないでしょうか。


 これもプロットの問題かと思いますが、ある出来事が起きてこうなって終わる――というものを2時間くらいで描くなかで、わかることは少ないのです。最初から全部わからせようがないわけですから、整合性はちゃんと取りつつも「こことここさえわかっていれば後は必要ない」と思い切ることが重要な気がします。その判断がなかなか難しいところなのですが、「あとは気になるかもしれないけれどわかりません」と提示してしまうことは決して悪いことではありません。むしろ描かれていないことに観客が関心をもってくれた方が作品としては面白いわけですから。


――観客の解釈や考察の余地が広がるといいますか。


 そうですね。ですので、そこは自信を持っていいのではないかと思います。でたらめを書くのではなく「ここはわからせません」と決めてプロットを作っていくことが、面白い映画を目指す一番真っ当な道だと信じています。


(文=SYO)



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