石原まき子さん「裕次郎さんにとって映画製作は青春」「黒部の太陽」上映劇場に直筆手紙掲出

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2024年11月21日 15:21  日刊スポーツ

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石原裕次郎さんの生誕90周年特別企画として「黒部の太陽」が1回限りで上映された丸の内ピカデリーに掲出された、石原まき子さんが寄せた直筆の手紙(撮影・村上幸将)

石原裕次郎さんの生誕90周年特別企画として、裕次郎さんが三船敏郎さんと共同製作し、初共演&ダブル主演した1968年(昭43)の映画「黒部の太陽」(熊井啓監督)の1回限りの上映が21日、東京・丸の内ピカデリーで行われた。同劇場は、68年に「黒部の太陽」が公開された日劇と同じ場所にあり、映画が大好きだった裕次郎さんの生誕90年の節目に開催された記念すべき上映となり、平日の日中の上映ながら、100人を超えるファンが駆けつけた。


この日は、石原プロモーションを裕次郎さんとともにけん引した、石原音楽出版社名誉会長の石原まき子さんが寄せた直筆の手紙が掲出された。まき子さんは、命日の19年7月17日に横浜市鶴見区の総持寺で営まれた、裕次郎さんの三十三回忌法要を「弔い上げ」として墓前での法要を最後としてから、公の場に姿を見せる機会が少なくなった。その、まき子さんの貴重な直筆を一目見ようと、掲出された手紙の周囲には人だかりができた。


まき子さんは、手紙の中で「裕次郎さんにとって、映画製作は青春だったと思います」とつづった。その上で「黒部の太陽」についても触れた。67年7月にクランクインし、同9月30日の愛知・豊川ロケで濁流の場面を撮影した際に事故が発生し、裕次郎さんが右手親指骨折と全身打撲の重傷を負った際「私が病室に駆けつけた時『誰も死ななくて…俺だけで良かったよ。』と痛さをこらえながら安心した様子で話をしていたこと、今でもはっきりと覚えております」と振り返った。その上で「その時に撮影された映像がそのまま映画に使われておりますのでCGが無い時代での出水シーンは、迫力がすごくて注目していただきたいと思います」と「黒部の太陽」の見どころを自ら推した。


まき子さんの直筆手紙の掲出は、石原裕次郎生誕90周年特別企画の一環として実現した。「黒部の太陽」の上映も、同企画の1つとして、22年3月に開局したBS松竹東急で「黒部の太陽」のほか、69年「栄光への5000キロ」70年「富士山頂」「ある兵士の賭け」71年「甦える大地」の合計5作品を、12月17日から史上初となる5夜連続一挙放送(午後8時、21日のみ午後9時)することを記念して企画された。


5作品は、13年に石原プロ創立50周年記念事業の一環として、保管していたネガフィルムをデジタル化し、撮影を担当した金宇満司さんの監修の下、映像と音をハイビジョン化した上で、初めてDVD&ブルーレイ化され、同3月に発売された。まき子さんは「石原プロ制作の映画が5夜連続で放送されると伺いまして今から本当に楽しみでなりません。(中略)裕次郎さんをご存じな方もそうでない方もこの機会に愛され続けている映画をぜひご覧下さい」と期待を寄せた。【村上幸将】


◆「黒部の太陽」石原プロモーションと三船プロダクションが共同製作。56年から63年まで行われた黒部川第四発電所(黒四ダム)工事、中でも関西電力大町トンネル工事の難関だった軟弱地層・破砕帯を突破する7カ月の困難とそれを乗り越える人間の強さを描いた。当時は俳優、監督の引き抜き、貸し出しを禁じた「五社協定」全盛で、映画各社から協力も得られない苦境を乗り越えて製作。カラー映画1本の製作費が3000万円弱だった当時、13本分の3億8900万円をかけた。大ヒットし、当時史上最高の733万7000人の観客を動員し興収16億円(現在の約72億円相当)を記録した。

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