小説の中心にいるのは、日本で初めてのろう理容師であった男性だ。そう説明すると、特別な功績のある人物を描いた評伝のようだが、そうではない。これは、普遍的な家族の物語なのだと思う。
主人公の五森つばめは若手小説家である。新人賞を受賞したものの、2作目に取りかかれないまま3年が経ち、学生時代から続けている塾でのアルバイトで生計を立てている。熱心な編集者より久々に執筆の依頼があったことから、物語は動き始める。祖父が日本で初めてのろう理容師であったことを話したところ、編集者は興味を持ち、祖父のことを書いてみてはどうかと勧められるのだ。
承諾したものの、つばめは自分が生まれる前に亡くなった祖父のことを、ほとんど知らない。父とは子どもの頃からコミュニケーションが取りづらく、ろう者であった祖父母について話してもらったことはあまりなかった。今は施設に入っている祖母と、子どもの頃からろうの両親を支えてきた父の姉とは長く会っていない。久々に実家に帰って、祖父の小説を書きたいという思いを伝えるつばめに、父は両親に対する尊敬と罪悪感の混ざった複雑な思いを初めて明かしてくれる。
つばめは、祖父の人生に興味があるという男性・青馬に出会う。聞こえる人と聞こえない人をつなげる活動をしている彼との交流がきっかけとなり、ろう者が置かれてきた環境を知り、手話の奥深さを学んでいく。知れば知るほど小説を書くことに対する自信を失っていくつばめだが、青馬に励まされて、徳島に住む祖母と伯母に会いにいく決意をする。
さまざまな人の回想により、伯母の後悔と祖母の秘密、祖父が理容師として独立するまでの出来事が、明らかになっていく。当たり前のようにあった差別や、理不尽な環境に苦しんできた人たちがいること、それをどうにかしたいという思いが、時代を超えてつながってきたのだということに、心を打たれずにはいられない。
家族って、近いようで実は遠い存在だなあと思う。親や祖父母の人生には、知らないことがたくさんある人が多いだろうし、抱えている問題について、日頃から何でも家族と話すという人もあまりいないだろう。つばめの家族も、痛みや悲しみや後悔を、自分の中に閉じ込めたまま長い時間を過ごし、伝えることを諦めていた。それぞれの心の中にある塊のようなものに、恐れを抱きながらもつばめは触れていく。
家族の歴史を繊細に紐解いていくことにより、会ったことのないたくさんの人たちの思いが自分の今につながっていく。そして、自分に関わる人たちにも、影響を与えていく。それは特別な物語ではなく、誰にとっても起こりうる小さな奇跡なのではないだろうか。
(高頭佐和子)
『音のない理髪店』
著者:一色 さゆり
出版社:講談社
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