中垣征一郎氏は、プロ野球界でも異色のコーチとして知られていた人物だ。中学まで野球部に所属していたとはいえ、高校と大学は陸上部。しかし日米のプロ野球で20年以上の指導経験を持ち、ダルビッシュ有や大谷翔平といった「レジェンド級」の指導に携わった。オリックス・バファローズでは「巡回ヘッドコーチ」を任され、日本一にも大きく貢献している。
今でこそ野球界では様々なトレーナーが活躍をし、選手の成長や覚醒に貢献している。単なる体力づくりや怪我防止、治療ではなく「競技の技術向上」を促す手腕を持ったトレーナーが少なからず誕生している時代だ。中垣氏はそんな先駆者かつ第一人者で、その手腕が評価されて球団という組織内でも枢要なポジションを得た。
彼はこの12月1日から「株式会社斎藤佑樹」に所属し、新たな活動・挑戦を始めようとしている。インタビュー前編では「中学までしか野球経験がない」若者が、どのような経緯でトレーナーを目指し、どうステップアップしていったかを語ってもらっている。
――― 中垣さんがトレーナーを始めたきっかけと、その後のキャリアをお話いただけますか?
筑波大学の体育専門学群に入学して、3年生のときから高松薫先生の「スポーツパフォーマンスに関する体力トレーニング」を学ぶ研究室に所属したことが、今の仕事につながっています。
僕は選手としては中学までしか野球をやっておらず、高校と大学は陸上部でした。当時はとにかく「競技スポーツ、スポーツパフォーマンスの向上に携わりたい」という気持ちでした。
ただ当時はメディカルの資格を取得しないと、なかなかチャンスがない時代です。メディカルのトレーナーの方は大体「鍼灸」「あん摩マッサージ指圧師」の免許を持っていました。そこで自分も夜間の学校に通って、鍼灸やマッサージの免許を取りながら、トレーニングの指導を始めました。
その後留学をし、実習生としてマイナーリーグに行くチャンスをもらいました。最初にプロ野球に行ったのが1998年で、ニューヨーク・メッツのマイナーリーグです。そこから27年間、主にプロ野球でずっと仕事をさせていただいています。
――― 今はトレーナーという仕事にスポットライトが当たることも増えていますが、30年以上前に「トレーナー」「スポーツパフォーマンス向上のプロ」を目指したきっかけは何かあったのですか?
とにかく子供の頃からスポーツが好きでした。ただ、どう頑張っても、どのカテゴリーでも、一番にはなれませんでした。だからコンプレックスを抱えて生きていたのですが、スポーツ競技に携わりたいという気持ちだけは、大学卒業まで持ち続けられました。
トレーナーになりたかったというより、スポーツパフォーマンスの向上にできるだけ寄与できる人材になりたいという思いです。入口としてメディカルのトレーナーをやりながら、トレーニング指導をして、その中で何とか道を切り開いていければという想いでした。
学生時代は同じ研究室にトップアスリートがいて、さまざまな刺激を受けましたし、恩師からは本当にたくさんの学びを得ましたね。「いつか絶対そうなれる」という無根拠な自信を、研究室で過ごした2年間で強く持つようになりました。
――― 研究室にはどんな方がいたんですか?
ショートトラックのスピードスケートで活躍した河合季信(かわい・としのぶ1992年アルベールビル五輪・5000mリレー銅メダル)さん、テニスの遠藤愛(えんどう・まな/女子シングルス自己最高世界ランキング26位)さんがいました。
在籍は重なっていませんが、柔道の菅原教子(すがわら・のりこ 現姓・楢崎/女子柔道52kg級で1996年アトランタ五輪銅メダル、2000年シドニー五輪銀メダル)さんも同じ研究室です。各学年5人までしか同じ研究室に入れないルールでしたが、すごく刺激的な場所でした。
――― 「狭き門」だったと思いますが、中垣さんはどうクリアしたのですか?
僕はもうとにかく、高松先生に学びたい気持ちが非常に強くて、先生が指導している陸上部の全国区だった先輩に頼んで、夏休みの間に高松先生の研究室に連れて行ってもらいました。最初は「早く来たからって入れてあげないよ」と冷たくあしらわれたと思ったのですが、それでも必要以上に挨拶に行くようにしました。
高松先生が遠藤愛さんのトレーニング指導を、朝やっているのを知っていたので、こちらも朝練がてら走って行って、先生に挨拶だけして帰りましたね(笑)。かなりウザいことをやって先生の気を引きました。「そんなに入りたいなら、入れてあげるよ」となって入れてもらいました。
――― トレーニングの指導を開始したのはどのタイミングですか?
小守スポーツマッサージというメディカルのトレーナーを派遣している会社のお世話になっていたのですが、すぐそばに伊勢丹の本店がありました。たまたま(ラグビー日本代表でも活躍した名WTBの)吉田義人選手が先輩の先生のところに来ていました。その先輩に「誰か小守から伊勢丹にひとりもらえないですか」と話をしたらしく、「中垣はトレーニングのことまでよく知っているから」と推薦してくれたようです。
大学を卒業してから3年目に初めて、トレーニング指導を本格的に含んだ仕事を伊勢丹のラグビー部で始めました。
――― トレーナーは大まかに言うとメディカル系の方と、S&C(ストレングス&コンディション)の二つに分かれます。最初はメディカル側で入って、S&Cに広げていったイメージですか?
そうですね。スポーツ大国のアメリカでそういう資格を出しているから「S&C」の言葉は日本でも浸透しています。僕の中では「ストレングス」「コンディショニング」というより、体力であったり、技術であったり「トレーニングを包括的に見る」ことを学生時代にスタートしてやってきています。
体力を技術と掛け合わせて、パフォーマンスに結びつける全体の活動がトレーニングだと僕自身は考えています。体力トレーニングの中にも技術の要素は入っているし、技術の練習にも体力の要素が入っている――― 。
これは切っても切り離せないものです。全てを自分が見るわけではないですが、当時から「どういう結びつきの中で、それぞれがどう関わり合っているか」を意識して選手を指導していまいた。
――― 1997年にユタ大学の大学院へ留学されます。
伊勢丹ラグビー部で、このまま頑張ったら仕事を広げていける感触はありました。ただサイエンスでも、エンターテイメントの面でも、近代スポーツの発展に大きな役割を果たしてきたのはアメリカだと思いました。向こうで勉強しながらフィールドに出る機会を、どうしても一度若いときに得られないかという気持ちで、伊勢丹ラグビー部の2年目が終わったときに決断して渡米しました。
最初はオレゴン州立大学で英語学校に行きました。大学選びについては、いま北海道日本ハムファイターズの統括副本部長をやっている岩本賢一さんが手伝ってくれました。僕のやりたい研究をやっている先生がいて、奨学金を取りやすくて、実習のチャンスもある……という条件を考えたとき、ユタ大学が合致していました。4年生として1学期分の授業を取って、頭の中を少し英語に変えてから、大学院の入学受け入れが決まりました。
――― 野球界に進むことは大学院の段階で考えていらっしゃったのか、人の縁とかで日本ハムに来て、そのまま自然と定まったのか、どちらでしたか?
これはもう岩本さんに引っ張り込んでいただいきましたね。プロ野球で自分自身を表現できるような人間ではないと感じていたし、日本に戻ったら大学で教職に就いたり、そういったことをやりたいなと考えていました。
メッツのマイナーリーグに実習生で行ったのも、岩本さんがフルタイムでメッツの仕事をしていて、インターンの枠で「来てくれないですか」と言ってくれたからです。アメリカは夏休みが3カ月くらいあるので、夏休みのたびフロリダに行っていました。韓国人のトッププロスペクトの選手がいて、手伝いをしていたら、エージェントから「韓国に行って仕事をしてみてくれないか」という話をいただきました。
韓国プロ野球で一年トレーニング指導をし、色々なものを見てアメリカに戻るつもりでした。ビザの取得がなかなかうまくいかず、日本の大学への就職が決まりかけている頃に、北海道日本ハムファイターズで(トレイ・)ヒルマン監督の専任通訳に就いていた岩本さんからオファーをもらいました。
ちょうどファイターズが北海道に移転するタイミングで「トレーニング部門とメディカル部門のトップで仕事をしてくれる人。しかもヒルマン監督と直接コミュニケーションを取ってくれる人がいてくれたらチームの力になる」と言ってもらいました。「勝ち負けのあるところでトップ選手とやりたい」という気持ちが勝って、お世話になることになりました。
――― 当時の日本で、中垣さんのロールモデル的な存在はなかったと思います。
僕の一番弱いところでもあり、武器にもなっているところが、どんな種目に行っても「よそ者」ということです。中学までしか野球をやってない経歴の自分が、例えばダルビッシュ(有)や大谷(翔平)に投げ方をあれこれ言うのは、周囲にとってものすごい違和感のある話だと思います。
ただ、運動には原理や原則みたいなものがあります。自分はスポーツパフォーマンス全体の原則の中から「野球の場合はこう」「バスケットで跳ぶ場合はこう」「サッカーの切り返しだったらこう」と見出していくアプローチでやってきました。
日本ハムで最初にプロ野球に携わったころは、ケガをした選手たちに対して、「体力的にこういうことが足りないから、そこをやりましょう」「動きのこういう欠陥がケガにつながっている可能性があるから、ここはちゃんとしましょう」といった話をしていました。それを細かくやっていく中で、復帰した選手が元気なときも僕に話を聞きに来てくれるようになり、段々と今の仕事に広がっていきましたね。
自分自身が色々な人から教えていただいたこと、その中で気がついたことを、どうスポーツパフォーマンスの中に落とし込むかをとにかく一生懸命考え続けて……。あと中学生のときは試合に出してもらえなくて野球が楽しくなかったんですけど、戻ってみたら野球が本当に好きでした。色々な人に出会えて、やればやるほど面白くなって、そういう気持ちで仕事をさせてもらってきました。
――― ダルビッシュ投手は技術、身体の使い方へのこだわりが強く、知識も豊富なアスリートです。彼との出会いが中垣さんを変えた、評価を上げた部分もあるのではないでしょうか?
それはもう、本当に大きいと思います。ダルビッシュと出会ったのは僕が日本ハムに入って2年目(2005年)です。運動技術について選手たちと話をすることが当たり前になってきていた頃でした。
当時の彼は体力的に足りない部分が多くあったのですが、技術的に高いポテンシャルを持っていました。そして僕の持っていた仮説を伝えると理解力が高くて、分かってから「できる」までがものすごく近かったです。もうどんどんと身に付いて、自分の考えていたことが大きく外れてないという自信を彼はもたらしてくれました。
僕も常に選手から教えてもらっている立場ですけれども、ダルビッシュには彼からしか学べないことを学ばせてもらいました。あの時期にダルビッシュに出会えたことは、僕にとって大きな幸運でした。
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取材=大島和人
写真=須田康暉
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