1995年のBPRグローバルGTシリーズ最終戦珠海を戦ったトヨタ・スープラGT LMの36号車。ヤニック・ダルマスとJ.J.レートがドライブした。 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1995年のBPRグローバルGTシリーズ最終戦珠海戦を戦った『トヨタ・スープラ』です。
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2024年、TGR TEAM au TOM’Sの手によって、SUPER GT GT500クラスのチャンピオンカーとなった『トヨタ・GRスープラ』。
このスープラ(現GRスープラ)の先代であるJZA80型の時代には、スーパーGTの前身である全日本GT選手権(JGTC)のみならず、そのJGTCマシンを転用して世界のレースにも挑んでいたことがあった。
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JGTC仕様のスープラをモディファイして戦った世界のレースへの参戦例としては、1995年と1996年のル・マン24時間レースへのチャレンジがよく知られている。そして実は、1995年にもう1戦、スープラは海外のレースへと参戦していた。
その1戦というのが1995年BPRグローバルGTシリーズの最終戦、中国で開催された珠海ラウンドだった。
BPRグローバルGTシリーズ(BPR GT)は、ジェントルマンドライバーやプライベーターチームを主に対象としたスーパーカーによるレースシリーズだ。2024年現在、GTワールドチャレンジなどを主宰するSROモータースポーツグループの会長ステファン・ラテルらの手によって作られたBPR GTは、1994年から1996年の3シーズンが開催された。設立時に制定されたGT1、GT2、GT3、GT4といったクラス分けが現在に至るまで受け継がれるなど、その後のGTカーレースシーンに大きな影響を与え、1997年に始まる国際自動車連盟(FIA)が主催のFIA GT選手権の前身となるシリーズでもある。
スープラは、BPR GTに元々参戦していたわけではなかった。だがしかし、1995年のJGTCでスープラを走らせていたトムスにマールボロブランドを中国で展開するフィリップモリス香港からこんな依頼が舞い込んだ。
「BPR GTの最終戦珠海でスープラを2台走らせてほしい」
トムスは、この依頼に応えることにする。ただ、当時のトムスがJGTCで走らせていたのは1台のみであり、台数が足りない。TRDとの相談の末、同じスープラ陣営として1995年のJGTCを“FET SPORTS SUPRA”として戦っていた車両を借りて、2台体制を叶えることに成功した。参戦台数の問題は解消したものの、起用するドライバーの問題もあった。
BPR GT第12戦珠海ラウンドの日程が11月3日から5日だったため、富士スピードウェイで行われる全日本ツーリングカー選手権(JTCC)最終ラウンドと重なっていた。そのため、JGTCにおいてトムスのスープラにレギュラーで搭乗していた関谷正徳、ミハエル・クルムはJTCCへ参戦するため、BPR GTでは起用することができないという問題に直面した。
そこで1台目であった36号車には、ヤニック・ダルマスとJ.J.レート、2台目の37号車には、フィリップ・アリオーとピエール-アンリ・ラファネルというメンバーが招聘された。
BPR GTを戦うにあたり、トムスはフルフラットボトム化に加え、リストリクターやタービンの径を拡大し、さらにカーボンブレーキへ換装などのモディファイを行った。そして、マールボロカラーに身を包んだ2台のスープラを珠海へと送り込んだ。
レースウイークを迎え、2台のスープラは練習走行で珠海市街地サーキットへコースインするも、トラブルによるクラッシュなど幾度となく苦難が襲いかかった。それでも、トムスのスタッフは徹夜しながらマシンを修復し、予選出走に漕ぎ着けることができた。この予選では、37号車が接触もありながらも全30台中11番手、36号車が13番手グリッドを獲得した。
11月5日の決勝は、400kmという距離で争われた。36号車は、サスペンショントラブルでリタイアを喫してしまった。37号車は、完走12台というサバイバルレースにおいて、11位で完走を果たした。
BPR GTに挑戦したトムスの“マールボロ”スープラは、練習走行からトラブルが続き、最終的には順位も奮わなかった。しかし、マクラーレンF1 GTRやフェラーリF40などといった世界の強豪が揃う海外のBPR GTに戦いを挑んだ日本車は、このスープラ以外にはいない。
ル・マン以外の世界戦で名を刻んだ価値あるスープラ。それがこの『マールボロ・スープラ』なのである。