19日に死去した読売新聞グループ本社の代表取締役主筆の渡辺恒雄さんは、1952年に政治部に配属されて以来、日本政治の中枢に約70年関わり続けた。実力者の懐に飛び込み、時にスクープを放つ一方、激動の舞台裏で暗躍が伝えられたことも。「まるでフィクサー」との批判もあったが、生涯、「国益にプラスなら」とわが道を貫いた。
渡辺さんが政治記者として食い込んだとされる政治家は枚挙にいとまがない。戦後復興期に吉田茂元首相の番記者として下積みを積んだ渡辺さんは、55年の保守合同後、鳩山一郎元首相、池田勇人元首相ら高度経済成長期に活躍した自民党実力者と信頼関係を築いた。
中でも大野伴睦元副総裁とは、政界の父親として慕うほど懇意だったとされる。8歳年上の中曽根康弘元首相とは若いころから読書会を開催。家族ぐるみの付き合いを重ね、生涯にわたって親交を温めた。
記者ののりを超えていると批判を受けることも少なくなかった。現役記者時代には大野氏を韓国政府の要人と引き合わせ、日韓国交正常化を後押ししたこともある。経営サイドに入ってからも、国会のねじれを解消する「大連立」実現に向け、当時の福田康夫首相と小沢一郎民主党代表の間を取り持とうとした。
近年は安倍晋三元首相や岸田文雄元首相と折に触れて会談し、政権運営を巡って意見交換した。
読売新聞主筆としては憲法改正試案をいち早く発表するなど、同紙の自由主義的保守路線を主導。一方で強烈な戦争体験を背景に戦争責任検証キャンペーンを展開するなどリベラルな一面もあった。「終生一記者を貫く」。渡辺さんが生前に建てた自身の墓には、晩年の中曽根氏から贈られたこんな墓碑銘が刻まれているという。
小泉純一郎首相(右)と歓談する渡辺恒雄読売新聞社長(肩書は当時)=2004年1月、東京都千代田区
鳩山一郎元首相の没後50年祭に出席した渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長(中央)と中曽根康弘元首相(右)。左は海部俊樹元首相(肩書は当時)=2009年3月、東京都内