モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1994〜1996年にル・マン24時間レースのLM-GT2クラスに参戦した『ホンダNSX GT2』です。
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1990年に誕生したホンダのフラッグシップミッドシップスポーツカー『NSX』。このクルマは、スポーツカーとして生を受けながらもしばらくレースへのチャレンジはしていなかった。市販車デビューから4年が経った1994年、ホンダはNSXをレースへエントリーさせることを決断。そのチャレンジの場として選んだのがル・マン24時間レースだった。
この頃のル・マン24時間レースは、長く続いたグループCカーの時代が“ほぼ”終焉を迎え、市販スーパーカーなどをベースとするGTカーが主役に躍り出ようとしていた。そんな変遷期の真只中だった当時のル・マンのGTカーカテゴリーは、GT1、GT2およびアメリカのIMSAシリーズ参戦車が対象となるIMSA-GTSにクラス分けされていた。
ホンダは、NSXをGT2クラスへエントリーさせ、イギリスのTCPというコンストラクターの手によってレーシングカーへと仕立てられることになった。本格的なレースデビューを前にNSXは、元々のウリでもあったオールアルミモノコックボディを活かしつつ、それにカーボンコンポジットを被せて車体剛性をアップなどといったGT2クラスを戦うためのモディファイが施された。
初陣となる1994年のル・マンでは、タッグを組んだポルシェ系名門プライベーターとして知られたクレマーレーシングがレース運営を担当。計3台のNSX GT2が託された。
予選では、高橋国光、土屋圭市、飯田章がドライブする47号車がクラス4番手、アルミン・ハーネ、クリストフ・ブシュー、ベルトラン・ガショーの駆る48号車がクラス2番手と、20台以上がひしめくGT2クラスのなかで好順位につけ、決勝への期待も高まることになる。
しかし、決勝では、駆動系、特にドライブシャフトのトラブルが多発。3台それぞれがドライブシャフトの交換を行ないながら走行を続け、なんとか全車完走を果たすという結果に留まってしまった。
翌1995年、ホンダは前回の知見を活かしてGTカークラスの最高峰であるGT1クラスへエントリー。縦置きターボエンジン搭載車を含む2台のNSXを送りこみ、2年目にして総合優勝を狙った。その一方で、前年に引き続きGT2クラスへ1台参戦させていた。それが結果的にこの1995年にGT2クラス優勝を果たす高橋国光、土屋圭市、飯田章がドライブしたチームクニミツの車両だった。
1995年のル・マンに参戦したチームクニミツのNSX GT2は、基本的には1994年車の改良版であった。この車両の改良については、前年のクレマーに代わってレース運営を担当した日本のノバエンジニアリングの手によって行われ、前年に問題が発生した箇所を中心にモディファイが加えられた。
予選では、NSX GT2はクラス3番手タイムをマーク。クラス上位グリッドを獲得したものの、決勝直前にいきなりミッションオイル漏れのトラブルが発生したため、ピットスタートとなってしまった。
スタートドライバーは土屋が務めた。スタート直後は晴れていたもののまもなく雨が降り出しウエットコンディションに変貌。そんななか、土屋は、スティントを終えるころにはクラス2位にまで順位を上げ、飯田にバトンを渡した。その後、エキゾーストパイプのトラブルが発生し、再び大幅に順位を落としてしまったNSXだったが、諦めず追い上げを再開。途中、右側のヘッドライトを失うトラブルにも見舞われるも、最後までウエットという難しいコンディションのなか、前を追い続けて見事チェッカーフラッグを受けた。
その結果はGT2クラス優勝。総合でも8位という順位でレースを終えた。他にも例はあったものの、オール日本人クルーによるクラス優勝という大戦果を得たのだった。
ホンダワークスとしてのル・マン挑戦はこの1995年をもって終了。ただチームクニミツが独自でNSX GT2を使い、不変のドライバー体制で1996年もル・マンへ参戦した。この年はライバルの急激なポテンシャルアップも影響して連勝は果たせず。それでもクラス3位という順位を持ち帰ることができた。
1996年を最後にNSXによるル・マンへの挑戦劇は幕を閉じ、その後、全日本GT選手権(JGTC)における活動が本格化していくことになるのである。