およそ30年前、日本がコメ市場を部分開放したウルグアイ・ラウンド。当時の交渉の舞台裏がきょう公開された外交文書と細川元総理への単独インタビューで明らかになりました。
天井近くまでびっしりと積み上げられた大量の袋。これらはすべてアメリカからの輸入米です。
政府は、アメリカやタイなどから毎年77万トンのコメを受け入れていますが、その多くが飼料用として安く販売されるうえ、保管にも費用がかかるため、国にとって財政負担となっています。
それでも輸入を続けるワケ、それはおよそ30年前に行われた政府のある決断にありました。
細川護熙 総理(当時)
「部分的とはいえ、コメの輸入に道を開くことは、このうえなく苦しく辛く、まさに断腸の思いの決断であった」
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1993年、細川政権が「一粒たりとも入れない」という方針を大きく転換したコメの部分開放。
WTOの前身であるGATTが行った自由貿易を目指す多国間交渉ウルグアイ・ラウンドで、アメリカなどがコメの市場開放を迫る中、日本政府が合意したのが、コメの関税化を6年間受け入れない代わりに最低限のコメを毎年輸入する「ミニマム・アクセス」という“妥協案”でした。
「外国の安いコメが入ってくれば壊滅的な打撃を受ける」と農業関係者が連日反対デモを行うなどして大きな波紋を呼んだこのウルグアイ・ラウンド。きょう公開された外交文書には、日本政府が交渉に苦慮する様子が記されています。
妥結の数日前、GATTの事務局長から当時の細川総理にこんな手紙が送られていました。
サザーランド事務局長
「今こそ日本は農業問題について行動を起こすべきだ。日本がこちらの提案を受け入れることを強く促す」
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また、関税についてアメリカが理不尽な要求を飲むよう迫り、日本が反発する様子も。
ジュネーブ国際機関政府代表部 遠藤大使
「コメの決断など苦しい選択をした日本に、これ以上の負担と犠牲を強いることは全くアンフェアであり、受け入れらない」
GATTやアメリカからの圧力はどれほどのものだったのか。
総理大臣として当時、交渉に臨んでいた細川護煕氏に話を聞くと、実はこうした要求は形式的なもので“建前”としての側面が大きかったと語ります。
細川護煕 元総理
「他(の国)に対して、日本にもこうやってプレッシャーをかけたぞっていう、そういう顔立てっていうこともあったと思いますよ。日米交渉でその前から9月か10月ごろからはっきり手を打ってるわけですから」
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なんとウルグアイ・ラウンドが妥結される数か月前には、既に日米の政府間で秘密裏にコメの部分開放で合意していたといいます。
このことがリークされると、細川氏は会見や国会で繰り返し追及されましたが、当時は徹底的に否定していました。
細川護煕 元総理
「多国間交渉ですからね。そういう話が漏れると、全部ご破算になってしまうので。もう知らぬ顔の半兵衛で行くしかないんですね。こういうのは」
交渉の終盤、細川氏は当時の羽田外務大臣をジュネーブに派遣しましたが、これも政府内で高まる批判の声を和らげる役割が大きかったといいます。
細川護煕 元総理
「羽田さんのジュネーブ訪問によって何かが動いたというわけではないんです。しかし、コメ問題を巡る当時の恐ろしく感情的な雰囲気というものが与野党にありましたから、芝居を打ったということですね」
一方、連立与党だった社会党の反対はギリギリまで続き、内閣が倒れてしまうことも覚悟したという細川氏。それでもコメの部分開放を断行したことについて、財政負担など問題はあったと認めた一方、当時はこれが日本の国益に最もかなう選択だったと話します。
細川護煕 元総理
「農業だけの問題じゃないわけですよね。ウルグアイラウンドの交渉っていうのは。日本は海洋国家で、貿易に自由な通商の体制を通じてやっぱり日本という国をね、守っていかなきゃいかんわけです」