昭和の名優が旅立ったのは、2024年5月16日のことだった。中尾彬さんが心不全のため、81歳で逝去。
「中尾さんは1962年に日活ニューフェイスとしてデビュー。映画『本陣殺人事件』やテレビ朝日系のドラマ『暴れん坊将軍』に出演し、人気を博しました。武蔵野美術大学出身で芸術にも造詣が深く、千葉県木更津市にアトリエを構えて絵を描いていました」(スポーツ紙記者、以下同)
妻・池波志乃とはおしどり夫婦として有名だったが、若いころはプレイボーイとして名を馳せていた。
「何人もの女優と浮名を流していました。1970年に女優の茅島成美さんと結婚。子どもも生まれましたが、眞帆志ぶきさんとの不倫が発覚し、中尾さんが多額の慰謝料を支払うことで離婚が成立しました」
池波との出会いは、その離婚調停中だった。
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毎日の楽しみだった妻との晩酌
「中尾さんはドラマの共演者に幻の日本酒といわれた『越乃寒梅』の知識を披露していました。そんな中、笑いながら“そのお酒なら毎日飲んでいますよ”と言ったのが志乃さん。これがふたりのなれそめだったようです。ふたりとも美食家でお酒好き。中尾さんは毎日食べたものを“食日記”に残していましたね。夫婦で外食に行くこともありましたが、中尾さんは家で食べるほうが好き。2時間くらい晩酌をしながら志乃さんと話すことが多かったようです」(中尾さんの知人、以下同)
晩年にはトレードマークだった“ねじねじ”を処分し、生前墓を建てるなどの終活を行っていた。そのきっかけも“日課”からだった。
「晩酌をしているときに、どちらともなく、そろそろ身の回りの片づけを始めようという話になったようです。片づけながら、一つひとつにまつわる思い出を語り、楽しく終活をしていたみたいですね」
妻が用意した最後の食事
木更津にあったアトリエも手放した。それでも創作活動は続けていた。
「大きなサイズの絵を描くのは疲れるからと、小さな作品を描いていました。描き始めると止まらず、食事もしないほど。中尾さんは“この世は遊び”と考えていて、《遊びをせんとや生まれけむ》という後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』に出てくる1節を大切にしていました。これは“遊びをしようとして生まれてきたのだろうか”という意味。終活をする中でも自分の好きなことに関わりたい、遊びたいと創作活動を続けたのでしょう」
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最後まで“童心”を忘れなかったようだ。
「亡くなる3日前に“クリームソーダが食べたい”と言うと、志乃さんが少し高めのメロンソーダを買ってきて、アイスクリームをのせて手作りのクリームソーダを出したようです。それを中尾さんは子どもみたいに喜んで召し上がったそうで、それが最後の食事だったと聞きました」(前出・スポーツ紙記者)
天国でおいしいお酒と料理に舌鼓を打ちながら、愛する妻を見守っているだろう。