2024年が終わろうとしている。1月1日の能登半島地震、翌2日には羽田で日航機が炎上するなど不穏な年明けとなった。しかし米アカデミー賞に日本の2作が受賞、パリ五輪では海外の夏季五輪では最多となる45個のメダルを獲得、大谷翔平が米リーグ初の「50-50」達成とうれしいニュースも。そんな2024年を振り返り、『週刊女性』『週刊女性PRIME』が目撃してきた今年のニュースをお届けする。
9月上旬の夕方、仕事を終えた吉永小百合は、駆け込むように車に乗り込んだ─。
|
|
吉永の夫で、元共同テレビの会長だった岡田太郎さんが9月3日、胆のうがんのため亡くなった。94歳だった。
「岡田さんは、当時あった政府の機関である総理府に勤めた後、ラジオ局に転職します。その後、フジテレビへと籍を移し、ドラマプロデューサーとして活躍します。まだ自由に映像を切り貼りして編集できない時代に、役者の顔を交互にアップにして臨場感を出す撮影手法を駆使したり、不倫をテーマにした刺激的なドラマを放送するなどして、主婦層が貪るように見る“昼ドラ”を定着させた人でした」(スポーツ紙記者)
敏腕プロデューサーだった岡田さんが、ドラマの制作現場で吉永と知り合ったのは、1964年のこと。ただ、当時19歳だった吉永は、別の男性と恋をしていた。ベテランの芸能ライターが振り返る。
「吉永さんは、結婚も視野に入れて渡哲也さんと交際していたといわれています。しかし、彼女が24歳のとき、この恋は終わりを迎えます。吉永さんは破局理由についてインタビューで“築いた地位を捨てられなかった”と語っていますが、背景にあった本当の障壁は“吉永家”だったんですよ」
父親の事業失敗で“稼ぎ頭”に
吉永の父親は東大卒の官僚だったが、退職して事業を起こすも失敗。家計を支えていたのは、母親が開いていたピアノ教室で得る、わずかな収入だけだった。
|
|
「そこに吉永さんが小学生で子役として芸能界入りし、スターへと駆け上がった。吉永さんのマネージメントは両親が一手に担っており、結婚して子どもができれば家庭に入ることになる。そのため吉永家の稼ぎ頭であった娘を、両親は手放さなかったのです」(芸能ライター、以下同)
渡さんと破局後も、親の期待に応えようと、スターとして仕事を続けた吉永だったが、すでに壊れかけていた。
「26歳のとき、吉永さんは極度の過労とストレスで声が出なくなってしまうのです。そこで支えとなったのが、長らく一緒に仕事をしていた15歳年上の岡田さんでした。最初は渡さんとの恋の相談をする相手だったのが、その優しさに触れて吉永さんが燃え上がった。離婚歴のあった岡田さんは及び腰だったようですが、吉永さんからの熱烈なアプローチを受けた末、ゴールインするのです」
当然、両親は猛反対。しかし、
「長い間お世話になりました……行ってまいります」
|
|
1973年の8月3日、そう告げて実家を出た吉永は、この日、結婚式を挙げる。両親は式に出席しなかった。
始まった“台本のない夫婦の物語”
結婚当時、吉永は雑誌インタビューで両親について問われ、こう語っている。
《二十五、六になるまで自分の意思を持たなかったし……。結局、自分の意思で、もっと人間ぽく生きたいとか、そういうことを思うようになって》
岡田さんと出会った吉永は“両親の人形”から“意思を持った人間”へと変わったという。ここから、“台本のない夫婦の物語”が始まった。
ある芸能プロ幹部は、当時の吉永について述懐する。
「1年間は仕事を休み、その間に料理や裁縫の教室に通って、さまざまな家事を学んだようです。岡田さんに“愛妻弁当”を持たせていたなんて話も耳にしました。女優に復帰されてからも、家庭をおざなりにしないよう、仕事の量については、かなり相談されていましたね。自分の時間とご主人との時間を一番に考えていらしたのでしょう」
過酷な仕事を課されていた吉永に、岡田さんはこう言葉をかけたと過去の雑誌インタビュー記事で明かしている。
《女優であるより、まず、僕の妻であってほしい。仕事は、家庭のことがきちんとできる程度のものがいいのでは》
吉永を少しでも休ませたい。そんな思いがあったという。吉永は、夫の思いに応じるように、変わっていった。
吉永の母親が書いた“恨み節”
その後も夫婦で仲よくラグビー観戦をする姿が目撃されるなど、ふたりは真っ白だったページに、共に物語を描いていった。しかし、それはふたりだけのもの。こんな様子を、吉永の知人が話す。
「テレビでは岡田さんのことを“主人”と呼びますが、私たちの前では“うちの岡田”って言うんです。ご主人のことをノロケることは、まったくない。ただ、ふたりのときは“太郎さん”なんでしょうけれど」
外では常に“吉永小百合”を演じていた彼女が「太郎さん」と呼ぶそのときだけ、愛する夫の伴侶である“岡田小百合”になっていた。幸せな夫婦生活を送る一方で、“吉永家”との確執は消えないままだった。
「吉永さんの母親が1976年に書籍を出版するのですが、その中に《私は今までに、本当に一人だけ殺したいと“殺意”を持ったことがある。その対象は岡田太郎という男で、私の次女の結婚相手である》と記されていたのです。吉永さんは、関係修復を図ろうとしていたようですが、この本の出版を機に再び疎遠になってしまうのです」(前出・芸能ライター、以下同)
ただ、この確執も岡田さんの優しさがとかしていった。
「最終的には和解をされています。吉永さんも両親を気にかけていたようですから、岡田さんも妻のためを思っての選択でしょう。“殺意を持った”なんて世間に発表する母親を受け入れたのですから」
紆余曲折あった夫婦の歩みは今年で51年を迎えた。しかし、岡田さんが夫婦の物語から姿を消すことになった─。
冒頭の場面に戻る。
夫の他界の3日後、現場に姿を見せた
9月2日、吉永を乗せた車は、都内の病院を目指して高速道路を走り続けた。夫と、最期の別れをするために。
「この日、吉永さんは群馬県渋川市で2025年公開予定の主演映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』の撮影に臨んでいました。映画は登山家・田部井淳子さんの半生を描く物語です。岡田さんの病状も悪かったのでしょうが、共演者のスケジュールもありますから、迷惑をかけられないと予定どおり撮影に参加されたのでしょう」(前出・スポーツ紙記者)
岡田さんは、妻の到着を待つかのように9月3日の午前1時15分に息を引き取った。吉永に看取られながら。
壊れかけた自分を救い、その人生を大きく変えてくれた最愛の夫の死は、身を裂かれる思いだったはず。しかし、吉永は気丈に振る舞う。
岡田さんが他界した3日後の9月6日、吉永の姿は埼玉県にあった。前述した主演映画の撮影に臨んでいたのだ。撮影が終わった同日午後4時過ぎ、共演者である佐藤浩市や天海祐希が現場から帰る中、吉永もしっかりとした足取りで撮影現場を後にした。
「岡田さんの訃報が現場に伝えられたのは、発表と同じ9月13日でした。吉永さんは現場入りしたときも、つらそうな姿は微塵も見せず、いつもどおりの優しい笑顔で“いい作品を作りましょう”と挨拶されていて……。そんなことがあったと知り、胸が痛くなりました」(映画スタッフ)
全力で女優という仕事に挑み続ける吉永の物語は、まだ終わらない。