【前編】「なぜ父と夫婦関係を続けるの?」内田也哉子さんの問いに母・樹木希林さんが示した“覚悟”から続く
「俳優の妻、3児の母として頑張っていて、『包容力のある娘だ』と樹木希林さんから聞いていました。お会いして、大陸的なおおらかさと同時に、人の繊細な気持ちを察知する力をお持ちの女性だと、感心したんです」
無言館館主の窪島誠一郎さんが、6月に共同館主に就任した内田也哉子さん(48)の第一印象をこう振り返る。
無言館は、第二次世界大戦で命を落とした画学生(当時の美術学校生や卒業生)の顕彰を目的に1997年に長野県上田市の郊外で開館した美術館で、全国30カ所以上の遺族から集めた遺作や遺品など、約900点が収蔵されている。
だが、2020年以降のコロナ禍で、入館者数が激減し、維持・管理の運営面も含め、次世代への継承が窪島さんの悩みの種だった。
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「僕自身、70代以降くも膜下出血、泌尿器がん、心臓動脈解離と続けて見舞われ、締めくくりを意識した。一緒に運営して、僕らの世代から若い世代へと中継してくれる方を切望していたんです」
窪島さんと内田家の交流は、彼の活動を知った希林さんが2015年、「会いたかったのよ、あなたに」と突然、訪ねてきたことによる。
そこで「がん闘病」つながりで2人は意気投合。
翌年の無言館のイベントでは、希林さんが新成人を前に講演するなど、その後も交流は続いた。
一方で也哉子さんは、晩年の母が「自ら命を絶つ若者がいる現実」に心を痛めていたことを知る。
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「亡くなる2週間前の2018年9月1日、母は病室から窓の外に向かって『死なないで、ね。どうか、生きてください』と涙をこらえて語りかけていました。
『毎年9月1日は、学校に行けない子たちが大勢、自殺してしまう日なの』と話していたんです」
そして、希林さんが亡くなった翌年、東海テレビの「希林さんがたどられた道を訪ねてみませんか」という打診により、無言館と母の縁を知らされたのである。
「その番組の取材で窪島さんとお会いし、私も2022年に無言館主催の成人式に呼んでいただきました。ただし今回の共同館主の打診は、あまりに荷が重すぎたんです」
確かに晩年の母から「誰かの役に立つことを」と言われていたものの、無言館の「戦争、歴史」というテーマは「大きすぎた」のだ。
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「戦争や平和というのは、身内に犠牲者や経験者がいて、はじめて伝えられるものと思っていました。私は歴史を、向き合って学んだことはなく、むしろ目を背けてきてしまった分野でしたし」
悩む也哉子さんに、窪島さんはこう語りかけたという。
「無言館の歩みを『僕自身が悩んできた歴史です』と窪島さんはおっしゃいました。『戦争がなければ、存在していないのが無言館。展示作品の注釈は僕が監修しましたが、説明自体がミスリードしていないかと自問するんです』と」
窪島さんが望んだのは、世代の違う2人が一緒に「歴史を学びながら、ときに揺れながら、迷いながら成長し、伝えていく」こと。
「聖人君子でなくともいいんです」と言われ、すこし楽になった。
そうして大役を了承した也哉子さんは、戦争や、戦没者に関する資料を読み込んだ。いまはB5判の分厚い無言館の作品集を「持ち歩いている」と話す。
「そのときどき、心のタイミングで受け取る印象が違ってきます。『戦争、反戦』というキーワードの『押し付け』になるのはよくないので、つねに清々しい気持ちで向き合えるために、バッグに入れているんです」
代表的な展示品である伊澤洋作『家族』は、上品な着物やスーツ、学生服を着込んで、優雅に紅茶を味わう家族が描かれているが……。
「窪島さんが伊澤洋さんのお兄さんを訪ねた際、『これは洋の空想画でしょうね』と言われたそうです。当時の一家にそこまでの余裕はなく、ニューギニアで戦死した洋さんは『一家団欒の風景』に憧れていたのかもしれません」
戦争の悲しみ、平和の尊さを、言葉で押し付けるのではなく、人それぞれ感じるまま、思うままに。
也哉子さんの願いは、フワッと柔らかいようで、一本芯が通っているようでもある。
根底に、母の“遺訓”がある。
《おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい》
■娘・伽羅さんの人の気持ちに寄り添える優しさは、樹木希林さんの思いが継承されている
上田市・サントミューゼで「海よ哭け」コンサートのフィナーレを終えた也哉子さんは、鳴りやまない拍手のなか、ホッと胸をなで下ろすように楽屋に戻ってきた。
「母が言っていたように、何かが来たら面白がろう、そこに乗っていこうと心掛けてきました。半年悩んだけれど、こうした出会いに感謝しています」
その母が生活者として、比類ないロックン・ローラーの妻として両面を生きたように、也哉子さんも物事をつねに両極で捉え、それを必要な「両輪」だと解釈する。
「母が生きていくために父の存在は不可欠でした。物事は表に出る部分があれば、水面下に必ず何かがあり、それは窪島さんの無言館に対する葛藤もしかり。そんなアンビバレントな(相反する)状況こそ真理だと思う」
ときに、両親を相次いで亡くした也哉子さんは「どっぷり親との関係と向き合う」日々を得て、何を思うのだろうか。
そもそも、彼女は早くして母になり、文筆の世界に身を投じた。偉大な役者だった母と同じ道は、たどらなかったことになるが……。
そう問うと、やや目線を落とし、思い巡らすように答えた。
「たぶん、幼いころから背中を見てきた親って、偉大です。逆に親にとっては、どんなに年を取っても子どもは子ども。私も、親に追いつくことはないんじゃないかと思うし、同じ道をたどる必要もないと思ったんです」
ただ、也哉子さん自身はかつて映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)に出演し、日本アカデミー賞・新人俳優賞を受賞した実績もあるのだ。
「あの作品は、母の若いころを演じられる人が誰もいないということで『演技しなくていいから』と松岡錠司監督に言われて出演した記念碑的な位置付けでした。お芝居は、母があまりに天職でしたし、同じ土俵に立ちたくないと、私は引いていたんです」
なるほど、自身は20歳前後から執筆を始め、2004年には絵本『BROOCH』(リトルモア)で文章を手掛け、高評価も得ているのだ。
「じつは」と、執筆を始めたころ父・裕也さんから言われたことを教えてくれた。
「父は『俺たちみたいな芸能界に来なくてよかった。也哉子ならではの表現が見つかってよかったな』と言ってくれました」
二世として比較されなくてすむという「親心」を感じると同時に「間接的に認めてくれたのかな」とも思えたそうだ。
「父が暗に『お前の道を歩いていけばいい』と、教えてくれているようで、励みになりました」
いま、3人の子は成長し、順に親の手を離れていこうとしている。
長女の伽羅さんには、希林さんの気質が「隔世遺伝している」と感じることがある。
「伽羅は幼いころ無口でしたが、それを見た母が『私もそうだった』と言いました。『でも、伽羅は周りをよく見ているよ』とも。母と同居できたのは、孫である伽羅の大きな経験ですし、人の気持ちに寄り添える優しさは、母の思いが継承されていると思う」
うなずくように、目を細めた。
有形、無形に受け継がれるべきものがある。
人生の「折り返し地点」に立つ内田也哉子さんは、次代につなぐ役割を担おうと決めた。
(取材・文:鈴木利宗)
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