2024年に最も注目された新人は、坂崎かおるであった。
坂崎のデビュー作は2020年にかぐやSFコンテスト審査員特別賞を受賞した短篇「リモート」で、翌2021年にはやはり短篇の「電信柱より」で百合文芸小説コンテストSFマガジン賞を受賞した。単行本が出る前からすでに注目を集めていた作家で、これらの短篇を収めた第一作品集『嘘つき姫』(河出書房新社)が刊行されるとたちまち話題になる。そこからの進撃ぶりは見事であった。第二作品集が今回取り上げる『箱庭クロニクル』(講談社)で、「小説現代」に発表された三篇と「徳島新聞」に掲載された掌編「渦とコリオリ」、そして二篇の書き下ろしで構成されている。本書に先行して発表された中篇『海岸通り』(文藝春秋)が第171回芥川賞候補になったことの反響は大きく、一気に知名度も上がった。目利きの編集者・版元は、どこが最初に坂崎を「発見」するか、という競争を水面下で繰り広げていたと推測するのだが、日本で最も高名な文学賞がそれをやったことになる。
デビューから現在に至る経緯でもわかる通り、坂崎はミステリー畑の住人とは言いがたいし、どこのジャンルにいちばん近いかと言えばやはりSFということになる。にも拘わらずこの欄で取り上げるのは、『箱庭クロニクル』の巻頭に収録されている短篇「ベルを鳴らして」が、宮内悠介「ディオニソス計画」(『紙魚の手帖』vol.14掲載)と共に第77回日本推理作家協会賞短編部門を受賞したからだ。日本推理作家協会賞を獲得したなら、ミステリーとして取り上げておかなければいけないだろう。ありがとう、日本推理作家協会賞。
その「ベルを鳴らして」は第二次世界大戦前後の物語で、視点人物のシュウコは邦文タイプライターの学校に通う女性である。シュウコは向上心が旺盛で、周囲から頑張っていることを褒められること自体が腑に落ちない。与えられた場で全力を尽くすことは彼女にとって当たり前のことであり、逆にそうしない学友や同僚が怠慢であるかのようにしか感じられないのである。このシュウコの性格が物語の道筋を作っていく。
シュウコが邦文タイプライターの学校に通い始めたのは、高度の技能を習得すれば驚くほどの収入が得られる、こともあると知ったからだ。彼女たちを教えることになったのは林建忠という中国出身の男性で、シュウコは彼の技能に目を瞠るが、努力して勝ちたい、その上に行きたいとも思うようになる。彼女の向上心からすれば当然のことだ。その言葉を母語とする者が、母語としない相手に現在の技量では負けているという関係が出発点になる。邦文タイプライターで技能の焦点となる漢字はそもそも、日本語独自のものではなくて中国語という源流から発したものであるという歴史性がそこに重なる。シュウコの林への対抗意識は、自らが独立した存在として生きているつもりの彼女が、そうではない広がりを認識させられたがゆえの反発と読むこともできるのだ。やがてシュウコは林の偉大さを認め、個人的な思慕の感情を抱くようになるのだが、その矢先に彼はいなくなってしまう。
林を欠いた人生を突然送らなければならなくなったシュウコが、彼はどういう存在だったのかを考えていくことが後半の中心になっていく。従軍して大陸に渡ったり、林について意外な人となりを知ったり、という要素はミステリー的と言えないこともないが、それでジャンルに含めてしまうのはいささか強弁が過ぎるだろう。選考委員の評言を見ても、正直に言えばジャンル外の作品だが、こうしたものをミステリーの範疇に収めるのは穣りある判断ではないか、というような論調になっていた。
私が本篇にミステリーに通じる興趣を感じたのは、シュウコと林を結ぶ細い絆が、数個の漢字で行われるという点だった。暗号文めいたやりとりがあり、漢文の読み方が鍵となって感情を揺さぶられる展開になる。このくだりを読みながら、よくできた謎解きに通じる興奮が湧き上がってくるのを私は感じた。論理に徹して感情の抑制が効いた語りがなぜか読者の心を動かすという点に本篇の魅力がある。
「ベルを鳴らして」と並んでお薦めしたいのが「あたたかくもやわらかくもないそれ」だ。新型コロナウイルス蔓延の記憶がまだ生々しい時期に書かれ「小説現代」2024年4月号に掲載された短篇である。舞台となっているのは我々がいるのとはちょっとだけ歴史が違う現代の日本だ。この世界ではコロナウイルス蔓延よりももっと前の時期に、別種の感染症がパンデミックを起こしたことになっている。罹患すると映画の生ける屍にも似た姿・状態になってしまうことから〈わたし〉ことモモと親友のくるみの間では、それはゾンビ病だということになっている。残酷なことに、やがてくるみはそれに罹患してしまう。
物語は回想の形で行われる。すでに成人した〈わたし〉はモモがその後亡くなってしまったことを読者に明かす。そして「殺したのはわたし」だと言うのである。過去のある時点で何かがあったことは確実で、回想はそこに向けて進行していく。不可避の悲劇に向けて話が進んでいくタイプの物語であり、それがなぜ、どのように起きたのか、という謎が読者を牽引する。構造的には「ベルを鳴らして」よりもミステリー的だと言えるだろう。
「ベルを鳴らして」にはファンタジー的と表現される展開がある。「あたたかくもやわらかくもないそれ」もそうなのだが、ファンタジーというよりは、理屈だけでは説明しきれない物語要素としたほうが適切だろう。現実は淡々と進んでいくのだが、それを越えた光輝の一瞬と言うより他にないものが訪れる。そういう作品なのである。この二作と「イン・ザ・ヘブン」が「小説現代」に掲載された短篇だ。「イン・ザ・ヘブン」の舞台は現代のアメリカで分断の状況が十代の少女の眼から描かれていく。J・D・サリンジャーの使い方が抜群に巧いのでぜひ読んでもらいたい。これは「あたたかくもやわらかくもないそれ」とは逆の技巧だと私は思った。物語はある方向に向けて収斂していく。手触りのいい結末がこの先には待っているのだろうと読者が気を緩めた瞬間、ざらりとした感触の現実が虚構の中に突然飛び込んでくるのである。その違和感に目を覚まさせられる。
全六篇、収録作の風合いはどれも異なるので読んでいてまったく退屈することがない。素晴らしい短篇集だと思う。2024年に書く原稿の〆はこれにさせてもらえれば幸いである、という文章を今2024年12月31日に書いている。今からこれを送っても本日中に原稿が掲載される可能性は極めて低そうなので、書いておこう。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
もし原稿が2024年に間に合った場合は、みなさんどうかよいお年を。
(杉江松恋)
『箱庭クロニクル』
著者:坂崎 かおる
出版社:講談社
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