【前編】「お正月口上の練習中に」名門旅館「加賀屋」の女性4人が振り返る“能登半島地震の衝撃”より続く
能登半島地震から1年、日本一との評判も高かった七尾市和倉温泉の「加賀屋」も被害を受け、現在は休業を余儀なくされている。今回取材したのは、加賀屋に縁のあった4人の女性たち。
専属レビューパフォーマー・夏輝レオンさんとゆふきれいさん、勤続42年の営業部長・森浩子さん、震災後に入社した新人社員・小坂雪乃さん……。それぞれが震災の恐怖や仕事場喪失といった冬に耐えながら、加賀屋と能登半島に春が訪れることを待ち望んでいた――。
「レプラカン歌劇団」のリーダーで男役の夏輝レオンさんは東京都で生まれ、千葉県松戸市で育った。
中学生のころに見た映画『フラッシュダンス』に影響され、高校時代に、ダンスの世界に足を踏み入れた。
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「将来はプロのパフォーマーになりたいと思っていました。早朝にパン屋さんでバイト。放課後に新体操部で練習。夜は東京・大塚のダンス教室に通う日々でした」
進学した日本女子体育短期大学舞踊専攻(当時)で和洋のダンスを修得。卒業後にプロダクションに所属したものの、同所は1年で廃業してしまった。
そんなおり、東京のレビューチーム「スーパージャック」から、“男役”のオファーが来た。そのチームで、のちにレプラカンのツートップとなる、娘役の、ゆふきれいさんと出会うことに。
れいさんは福岡県の生まれで、宝塚音楽学校別科で学んだ。その後、大阪のOSK日本歌劇団で、デビュー。さらにスーパージャックに移籍し、三代目トップを張っていた。
れいさんが、当時のレオンさんの様子を振り返る。
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「初めてレビューの男役に挑戦するという緊張は、あったと思います。でも彼女は、出された指示をサラッとやってのけた。度胸があり、好奇心も旺盛でした」
長身のレオンさんと、しなやかな日舞が秀逸なれいさんは、お互いを認め合っていく。いっぽうのレオンさんは、当時のれいさんをこんなふうに見ていた。
「舞台にひたむきで、衣装の細部にまで全身全霊を込めて臨む姿勢を尊敬しました。『この人と仕事していきたい』と思ったんです」
スーパージャックが解散すると、2人でユニットを結成。
「東京・池袋のラウンジの10周年イベントが“初営業”でした」
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当時のレオンさんの日記には、《照明のない小さい額縁のなかのようなところでリハーサル。大喜びのスタッフだったが、その後、仕事には結びつかず……》と駆け出しの苦労がつづられている。
「タウンページをめくって、2人でとにかく営業電話をかけました。なかでも磐梯熱海温泉(福島県)の旅館さんの感触がよく、ユニット名を聞かれたんですが……まだ、決めていなかったんです」(レオンさん)
とっさに「レプラカンです!」と答えていた。以前に調べたことがある「宝石のありかを教えてくれる妖精」の名前が浮かんだのだ。
舞台で一方的に歌や踊りを披露するのではなく、客席に下りて、コミュニケーションを図っていく。そんなレプラカン独自のスタイルは、このころ見いだしたものだ。
2人の存在は徐々に全国の温泉旅館に知られるように。西伊豆・堂ヶ島温泉、岐阜・下呂温泉などで複数月の公演が組まれた。
和倉温泉・加賀屋のオファーは’03年のこと。加賀屋は’89年から館内劇場を構え、OSK日本歌劇団を招いてショーを開催していたが、’03年にOSKが一時解散。
一部のメンバーが残り、加賀屋は同年「雪月花歌劇団」旗揚げを発表した。その目玉として、レプラカンの2人をトップとして迎え入れたのだ。
レオンさんが当時を振り返る。
「私たちは雪月花歌劇団の立ち上げから2期トップを務め、’04年でいったん、和倉を離れました。その後は、れいさんと2人でレプラカン独自の活動を広げました」
この時期、長い不況で国内経済は停滞していたが、インバウンド景気はうなぎのぼりだった。
東京では、新宿や銀座の飲食店のホールで、年中無休でショーに出演。大阪のリーガロイヤルホテルでも600人以上を前に出演した。
2人のスタイルが言語の壁を破り、訪日客に認められたのだ。メンバーも拡大募集し、最大時20人以上の大所帯となった。
「公演が増え、収益も安定。順調すぎるほど順調でしたが……」
’20年からのコロナ禍で、劇場や店が軒並み営業休止。レプラカンも働き場と収入が激減した。
そんな2人が、ステージに本格復帰を果たしたのは、’22年10月、加賀屋の劇場だった。
「世間でアフターコロナと言われ、加賀屋も観光の出足が戻ってきて、ショーの再開を決めました。そして旗揚げメンバーの私たちに、オファーがあったのです」
加賀屋は「コロナからの復活」を国内外にアピールするために、レプラカンが必要だと判断した。劇団の名称を雪月花歌劇団から「加賀屋レプラカン歌劇団」へと変更して、プロデュース・演出・構成も、すべて2人に一任するという最高の待遇だった。
「コロナ明けで、日本一の旅館でショーができる。一時和倉を離れた私たちに声をかけてくれたことに感謝しました。20年間、2人で頑張ってきてよかったと」(れいさん)
「’04年に離れたときは寂しさが大きかった。でも、どんな場所でも私たちのショーはできると思ってやってきました。そこを評価していただいたと思う。『もう離れないぞ!』と誓いました」(レオンさん)
2人にとって能登は“地元同然”となり、絶対に守りたい居場所となったのだ。
■和倉町の保育施設や高齢者施設でショーを。「子供たちからメダルと元気をもらった」
能登半島地震により休業を余儀なくされた加賀屋は、他県出身の歌劇団メンバーに帰郷を勧めたが、トップの2人は「和倉に残りたい」と希望した。
れいさんは「私たちは帰るわけにはいかなかった」と話す。
「和倉では、すれ違う人に『行ってらっしゃい!』と声をかけてもらうのが日常になっていました。行きつけのお店や、濃いお付き合いがあったんです」
野菜を届けてくれる人がいて、「おでんを取りにいらっしゃい」と言ってくれる居酒屋の女将さんがいた。月イチで必ず行く美容室もできた。
七尾市生駒町の料理店「麺の華」店主の坂本すみさん(89)も「濃いお付き合い」のある1人だ。
「お客さんを喜ばせるために舞台で頑張っている2人から私も元気をもらっていました。ごはんを食べに来てくれると『すみちゃん』と気楽に話しかけてくれたんです」
2人は「寮に残って、復旧作業を手伝いたい」とマネジャーに告げた。レオンさんが言う。
「もちろんショーができないのはわかっていました。でも、『和倉温泉のために、できることはあるはずだ』と思ったのです」
2人は家々に「大丈夫ですか?」と声がけし、給水車の水くみ作業、家屋のがれき撤去を手伝った。
「初めて顔を合わせる方でも、なにも言葉を交わさなくても『頑張ろうね』という気持ちで通じ合えたと思います。みなさんと一緒にいる時間を肌で感じたくて、ずっと残っていたかったんです」
だがそれにも限度がある。ついに東京への帰宅指令が出て荷物を段ボールに詰めることに……。
地元の保育施設から電話があったのは、そんなときだった。
「子供たちのために、ショーを見せてくれませんか?」
保育施設「和倉こども園」からのオファーだった。レオンさんが目を輝かせて言う。
「避難所(和倉地区コミュニティセンター)の隣が、和倉こども園でした。保育施設なのに、静かな様子だったので、あるとき職員さんに言ったことがあったのです。『ショーだったら、いつでもできますから』と。そのことを覚えていてくださったのでしょうね」
そして1月18日、「子供ショー」開催の当日。
「きっと子供たちの顔が沈んでいるだろうなと思っていたんです。でも……、すごく元気でした!」
『となりのトトロ』や、米津玄師の『パプリカ』を子供たちの輪に入って、歌って踊ると、「きょうは、どうも、ありがとうございました!」、そんな感謝の言葉とともに手作りのメダルを授与された。
「子供たちから、私たちが元気をもらっちゃいましたね」(レオンさん)
さらに翌19日には、高齢者施設「ゆうかりの郷」を慰問した。レオンさんは小金沢昇司の名曲『ありがとう…感謝』をしっとりと歌い上げた。
「れいさんから前日に『歌ったらどう?』と言われていた曲でした。家族や友人に感謝を伝える歌なんです」
れいさんが目を細めて言う。
「入居者の方が、みなさん泣いていらっしゃいましたね……」
積極的にコミュニケーションを図る“レプラカン・スタイル”が、厳寒の被災地を温めたのだ。
■また能登で公演する日のため、「いまは東京で加賀屋の看板を背負って舞台に…」
「能登ではいまも、倒れた家屋が残っていて、隆起したコンクリはそのままだったりと、がくぜんとします……」
東京・アトレ竹芝の劇場型コミュニティスペース「SHAKOBA」での公演が佳境に入ると、レオンさんがマイクを握って語りだす。
「加賀屋で公演していた日々が、どんなに幸せだったか……。この千秋楽を出発点に、私たちはまた、歩き始めます。みなさまも能登のことを忘れず、お祈りくださればと思います!」
レオンさんの言葉に聞き入っていた観客たちから、「頑張れ!」の声が重なった。
加賀屋・第二営業部長の森浩子さん(61)は震災翌日にお客を見送ったときの光景を思い出して、涙ぐむ。
「お客さまはバスやワゴン車の窓から『頑張ってください』と、声をかけてくださいました。震災で苦境に立ちましたが、ご支援、やさしさに心から感謝しています。いただいた元気を『おもてなし』でお返しできるよう、いつの日か必ず営業再開したいです」
料理旅館「金沢茶屋」フロントスタッフ・小坂雪乃さん(23)は、新入社員代表挨拶で「いつか、和倉でお客さまをお迎えしたい。その日が楽しみです」と誓っていた。
「金沢茶屋ではインバウンドのお客さまも多く、母校の関西外国語大学で学んだ語学が生きています。能登は海の幸が豊富で、ブリが豊漁。営業再開後、いずれ能登で勤務する日も来ると思うので、その姿を穴水町の祖父母に見せたいですね」
加賀屋は創業120周年となる’26年9月10日に向け、営業再開が待ち望まれている。苦境のなかでも、加賀屋の女性たちは、未来を目指す。もちろんレプラカンの2人も──。
れいさんは願いを込めて語る。
「2人で、いろんな困難を乗り越えてきました。震災にもくじけない強い思いを、頑張っている能登のみなさんと共有したいです。また能登で公演する日のため、いまは東京で『加賀屋』の看板を背負って舞台に立とうと思います」
レオンさんが、和倉での出来事を思い起こして言った。
「別邸『松乃碧』の冬桜は、震災で根っこごと倒れてしまいました。でも旅館のスタッフが木も根も植え戻してくれていたんです」
11月に高齢者施設の慰問に訪れた際、女性スタッフから、こう言われたそうだ。
「冬桜、もう枯れちゃったかもしれないと思っていましたが……、咲いたんですよ!」
レオンさんが、急いで駆けつけると、ポツリ、ポツリと冬桜が、薄紅をほんのり差して、花開いていた。凛として──。
(取材・文:鈴木利宗)
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