「人は人にしか救えない」災害ボランティア30年、被災地の学び

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2025年01月14日 10:46  毎日新聞

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毎日新聞

仮設住宅の元住民たちと再会し、笑顔を見せる牧秀一さん(中央)=神戸市東灘区で2004年10月、三村政司撮影

 「もう、やめようかな……」


 体力に限界を感じ、そう思ったことは何度もあった。だけど、自分を待ってくれているお年寄りの顔が目に浮かび、思い直す。その繰り返しだった。


 NPO法人「よろず相談室」で理事長を務めた牧秀一さん(74)は1995年の阪神大震災の発生から25年間にわたり、独居高齢者らの見守り活動に力を注いできた。法人は2021年に解散したが、今も一人の友人として高齢者らと付き合い続けている。


「学校の先生なら話できるでしょ」


 ――活動のきっかけを教えてください。


 ◆震災発生時、神戸市の夜間高校の教諭をしていましたが、電車が動いておらず通うことができませんでした。そこで、神戸市東灘区の自宅近くで避難所となっていた小学校に行き、ボランティアの女子大生から「何も話さないお年寄りがいます。学校の先生ならいろんな話ができるでしょ」と言われたのがきっかけでした。


 それが阪神大震災の発生から9日目でした。周囲と話をせず孤立する人が多く、地域の人たちと発足したのが「よろず相談室」でした。


 ――どのようにして人間関係を築きましたか?


 ◆取り組んだのが、身近な情報を載せた「よろず新聞」の発行でした。お風呂が入れる場所、義援金の受け取り方法――。避難所に置かれた新聞記事を切り抜いてまとめ、会話のきっかけとして打ち解けることができました。地震から8カ月がたって、最後の一人が避難所を出る前日まで毎日発行しました。


 避難所が閉鎖され、ボランティア活動も終わったかに思われましたが、そうはいきませんでした。


 仮設住宅では誰にもみとられずに亡くなる孤独死が相次いでいたのです。


 いてもたってもいられなくなりました。震災の翌年から地域の人たちと「よろず相談室」を再結成し、仮設への訪問を始めました。


 仮設の入居は抽選などで決まるため、近所に知っている人がおらず、孤独を感じている人たちが多くいました。活動は主に休日で計7時間ほど話を聞く日もあり、帰り道はヘトヘトで自転車をこぐ力さえもありませんでした。


体力の限界「くじけそうに」


 ――それでもなぜ続けたのですか?


 ◆「もう、やめよう」。平日は夜間高校の教諭として働いていたため体力的に限界を感じ、何度もくじけそうになりました。


 しかし、高齢者にとって話し相手がいることは何よりの喜びです。震災で自宅や仕事、大切な人を失った上に話し相手までいなくなれば、どうなるのか。


 「また、来るわ」


 別れ際にそう言いながら、見捨てるようなことはできませんでした。


 さらに仮設から災害復興住宅へ住まいを移すと、再びコミュニティーはバラバラになり、ボランティアの姿も一気に減りました。仮設には被災者がいることが分かりますが、復興住宅の外見はごく普通のマンションだったからです。


 復興を遂げようとする街とは対照的に、年齢を重ねて孤独感や喪失感を抱く高齢者が取り残されていったのです。


 復興住宅での孤独死は1000人を超え、生き続ける希望を失った結果だと思いました。


 「独りじゃないよ」


 「あなたを気に掛けている人がいる」


 そう伝えないといけませんでした。


被害の集計ない震災障害者


 ――訪問以外の活動は何をしていましたか?


 ◆「よろず相談室」で他に力を注いだのが、震災で障害を負った人たちの集いでした。その存在は世間では知られていなくて、幅広い支援が必要なのですが、行政による実態調査もなく孤立を深めていました。


 「同じ悩みを持つ人が集まり、背負ってきた『重い荷物』を薄紙をはぐように軽くしたい」


 震災から10年が過ぎた頃、(倒壊した建物などから救助されながらも、長時間の圧迫で筋肉の細胞が壊死(えし)し、毒素が全身に回る)クラッシュ症候群の後遺症で、右足にしびれが残った男性が発した言葉がきっかけでした。


 彼ら、彼女らの話から国や自治体に実態調査や支援を求めてきました。総務省消防庁がまとめる死者、負傷者などの被害状況に震災障害者の集計はいまだになく、まだまだ知られていません。


 ――活動を通じて伝えたいことは。


 ◆制度だけでは人は救えず、人は人によってのみしか救えません。行政とボランティアが互いに足りない部分を補いながら、どうやって震災後を生きていくのか。一緒になって知恵を出し合っていかなければいけません。被災地はそれらを学んだはずです。【聞き手・村上正】


まき・しゅういち


 1950年生まれ。大阪府出身。神戸市の夜間高校の教諭を37年間務めた。NPO法人「よろず相談室」理事長として被災地支援に尽力。阪神大震災だけでなく、東日本大震災などの被災地にも駆けつけた。編著に「希望を握りしめて 阪神淡路大震災から25年を語りあう」(能美舎)。


阪神大震災


 1995年1月17日午前5時46分、兵庫県の淡路島北部を震源として発生した。地震の規模を示すマグニチュードは7・3。戦後初の大都市直下型地震で、神戸市や兵庫県芦屋市、西宮市などで、観測史上初めて震度7を記録した。


 被害は甚大だった。死者は災害関連死を含め6434人、行方不明者は3人、負傷者は4万3792人に上った。約25万棟が全半壊し、電気や水道、ガスや交通機関などインフラにも大きな被害が出た。


 被災者の支援や生活再建などにさまざまな課題や教訓を残し、地震対策や復旧・復興の在り方を見直すきっかけとなった。全壊した住宅などに支援金を支給する政府の被災者生活再建支援制度は、この震災がきっかけとなってできた。



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