ひとり親家庭で育ち、バスケ、勉強に全力を注いで日本一に FE名古屋・内尾聡理が紡いだ家族の絆と茨の道

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2025年02月04日 10:01  webスポルティーバ

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内尾聡理 ストーリー 前編

【ひとり親家庭に育つ】

 児童養護施設への訪問や、メーカーとのコラボ商品の売り上げをひとり親家庭の子どもたちの支援に充てる活動などを積極的に行なうルーキー選手がいる。それがB1リーグ、ファイティングイーグルス名古屋所属の内尾聡理(うちお・そうり)だ。

 彼は2024年11月に社会貢献活動(子ども支援)プロジェクト『S.U Future』を立ち上げ、試合や練習の合間を縫って、さまざまな活動を行なっている。プロ入り1年目の選手がいったいなぜ? その背景には、彼の育った家庭環境があった。

 内尾が生まれたのは福岡県北九州市。姉の聡菜(あきな/富士通レッドウェーブ)とのふたり姉弟だったが、物心つく頃には父親は家におらず、母親と3人で暮らしていた。いわゆるひとり親家庭だ。母親は保育士の仕事だけでは生計を立てられず、テレホンアポインターなども掛け持ちしていたこともあり、一般的な家庭に比べて親との接点は少なかった。

「幼い頃は友だちの家に遊びに行っても、『お家の人が帰ってくるから』と言われると、自分も家に帰らないといけなくて、そこからひとりで家にいることが多かったです。それがすごく寂しかったなという記憶があります」

 そんな内尾の寂しい気持ちを和らげてくれたのがバスケットボールだった。「姉が小4くらいからバスケを始めた」ことで、その送り迎えについていくようになった内尾は、そこでクラブの監督から熱心に誘われた。そして小学1年の終わり頃から小倉ミニバスケットボールクラブに入団。「バスケットボールというスポーツに出会い、僕の人生は180度変わった」というように、内尾はすぐに夢中になった。バスケをやっているときは本当に楽しかった。ただ、それでも環境が大きく変わるわけではないため、家に帰れば家事を行なうこともあった。

「母は朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきたりしていたので、苦労しているのは感じていました。だから僕がご飯を炊いたり、洗濯をしたり、姉と共に最低限のことはやっていました。僕のなかではそれが当たり前の生活でした」

 姉とは4学年違うこともあって練習時間も別々。姉が練習をしている間に母親が仕事に行くこともあり、ひとりで留守番することも多かった。そんな生活だったため、「家族全員で何かをすることは少なかったし、そもそも3人が揃うことも少なかった」と振り返る。

 他の家に比べて生活は決して楽ではないと感じていた内尾は、バスケットボールシューズがボロボロになっても「母親には言いづらかった」という。だから、穴が開くまで履きこんだ。

【中学から親元を離れる】

 身長が高く、バスケットボールで才能を発揮し始めていた内尾は、縁があって熊本県の強豪中学校への入学の話が持ち上がった。そうなると親元を離れての生活となる。もともと人見知りの性格だったが、大好きなバスケへの情熱から内尾は熊本行きを決断した。この3年間で内尾はめきめき頭角を表し、チームの主軸となって活躍。中学校で全国ベスト8を経験した。さらにU-16日本代表チームにも招集されるまでになった。

 将来を嘱望される存在となった内尾に、全国トップレベルの高校から声がかかる。地元の福岡第一だった。

「僕が入る前年に、インターハイとウインターカップを連覇していて、すごく強い時期でした。僕も中学のときに全国大会に出たので、より高いレベルでやりたいと思っていたところにお声がけいただいて、推薦で入ることができました」

 スポーツ推薦のためバスケ中心の生活になることもあり、内尾はここでも寮生活を送ることになる。母親も「聡理の意見を尊重してあげたい」とこの決断に快く賛成した。

 そこからは「休みもほとんどなかった」というほどのバスケ漬けの日々。「他の高校を見ていないので比べようがないんですが、感覚的には全国で一番練習をしていたんじゃないかなと思う」と当時を振り返る。

 そんななかでも内尾は勉強にも真面目に取り組んだ。スポーツ推薦の場合、部活動単位でクラス分けされ、通常はバスケ部だけが集まるクラスとなる。しかし学業成績のいい生徒は引き上げられる仕組みで、内尾は最終的に大学受験を目指すクラスへ振り分けられた。

「中学時代も成績は悪くはなくて、勉強をしないにこしたことはないと思っていましたし、同じクラスの他の生徒に迷惑をかけるわけにもいかないので、ちゃんと点数を取れるように頑張っていました」

 勉強にも部活にも熱心に取り組んだ内尾。ただ、レギュラーになるのは、かなりハードルが高かった。

【黄金世代の一員として全国制覇】

 当時の福岡第一は、今以上に高校バスケ界で栄華を誇っていた。同級生には河村勇輝(NBAメンフィス・グリズリーズ)、小川麻斗(B1千葉ジェッツ)、クベマ・ジョセフ・スティーブ(B3東京八王子ビートレインズ)、神田壮一郎(B1ファイティングイーグルス名古屋)らがおり、2年時にウインターカップを制覇していた。「高校2年生までは試合でベンチにも入れなくて、それまでそういう経験がなかったので、気持ち的にもつらかった」と内尾は胸の内を語る。

 3年時にようやくそのメンバーに食いこむことができたが、そこからさらに厳しい日々が続いた。

「先生に一番怒られていたと思います。すごく毎日怒られて、でも次の日も休むわけにはいかないので、また練習に行ってまた怒られる。もう寝るのが嫌でした。目を開けると朝なので、また1日が始まる。でも、(夜になれば)寝ないといけない。毎日怒られていると自分ってダメなんだと思ってしまって、本当につらかったです」

 それでも内尾はがむしゃらに練習についていった。今ではこのつらかった日々を「ありがたかった」と言えるほど、この時期に精神的にも技術的にもレベルアップできたという。その苦労が3年時に結果となって表れた。内尾は、エースキラーとして重要なタスクを担い、インターハイ、国体、ウインターカップの三冠を達成。チームは「黄金世代」と称賛された。

 その三冠を達成したウインターカップには母親と姉が駆けつけていた。内尾を支え続けてきた母親は、優勝の瞬間に涙を流していたという。家族3人で会うのは本当に久しぶりのことだった。

「母も姉もすごく喜んでくれました。そこで家族の仲がさらに深まったかなという感じはありました。すごくよかったと思います」

 内尾はそう語って笑顔を見せた。

後編に続く>>

【Profile】
内尾聡理(うちお・そうり)
2001年4月12日生まれ、福岡県出身。184cm、81kg。PG/SG。小学1年のときに小倉ミニバスケットボールクラブに加入すると、徐々に才能を発揮。中学3年時にはU-16日本代表に招集される。高校は名門・福岡第一に進学し、3年時にインターハイ、国体、ウインターカップの三冠を達成する。中央大学ではキャプテンとして活躍。大学4年時に千葉ジェッツに特別指定選手として加入。2024年6月にファイティングイーグルス名古屋に移籍した。姉は富士通レッドウェーブ所属の内尾聡菜(うちお・あきな)。

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