別れの季節/島田明宏

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2025年02月13日 21:00  netkeiba

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▲作家の島田明宏さん
【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】

 先週の土曜日、2月8日の京都競馬は積雪のため中止となった。それでも、同日、京都競馬場には2200人ほどが来場し、パークウインズとして、東京と小倉の馬券を楽しんだようだ。開催中の競馬場でも、パドックやコースには出ず、スタンド内のモニター近辺から動かない人を少なからず見かける。肉眼で馬を見ないのなら競馬場に来なくてもいいようにも思われるが、それが習慣になっている人もいるのだろう。

 中止になった京都競馬の代替として今週の月曜日、2月10日に開催された1回京都競馬3日目の入場人員は、前年比34.4%減の6308人。一方、売り上げは、31.6%増の122億3772万8800円と大幅なプラスになった。土曜から平日の開催になったことで客足は落ちたが、3場開催の土曜より、1場でしかJRAの開催のない平日のほうが、ファンの関心が集中するぶん、売り上げが伸びた、ということか。

 競馬をしていると、年度替わりの関係で、今はどうしても別れの季節になる。

 村山明調教師が3月4日に勇退することが報じられた。まだ53歳だから、定年まで17年もある。健康上の問題ではなく、報道によると、理由は特にないとのこと。

 競馬学校騎手課程第6期生だった村山調教師は、1990年に騎手としてデビューし、3186戦218勝、うち重賞2勝という成績をおさめて2007年に引退、角居勝彦厩舎の調教助手となった。翌2008年、調教師として栗東に厩舎を開業。管理馬初勝利を挙げたテスタマッタで2009年のジャパンダートダービーを制して重賞初勝利をマークし、さらに2012年のフェブラリーSでJRA・GI初制覇を遂げた。その後も、コパノリッキーでフェブラリーSを連覇したり、ダノンレジェンドでJBCスプリント、オールブラッシュで川崎記念を勝ったりと、特にダート路線での活躍が目立った。

 調教師として、2月9日終了時で4816戦(うちJRA4461戦)365勝(同307勝)、うちGI級15勝(同3勝)という素晴らしい成績をおさめている。

 私は、2008年のドバイワールドカップデー取材時に現地で一緒になってからよく話すようになったのだが、見てのとおりの、温厚で、理知的な紳士である。

 彼の最後の師匠だった角居元調教師も56歳という若さで勇退した。師弟ともに、私にはない潔さを持っている。

 村山さん、騎手として、調教助手として、そして調教師として、長い間お疲れさまでした。

 2022年の小倉サマージャンプで落馬負傷してから復帰を目指していた白浜雄造騎手も引退するという。私は、彼が1999年の暮れから2000年の年明けにかけてアメリカのサンタアニタパーク競馬場に遠征したとき、現地でともに過ごした。当時、彼は20歳。端正な顔立ちの、物静かな青年だった。スタンド前で調教を見ていたとき、彼が着ていた、背中に「ジャンプ・ジョッキー」と英字でプリントされたブルゾンについて現地の関係者が声をかけてきたときの嬉しそうな笑顔が印象に残っている。

 白浜騎手、お疲れさまでした。

 さて、人ではなくメディアの話になるが、「トーチュウ」の愛称で親しまれていた日刊紙「東京中日スポーツ」が、今年1月31日に紙媒体での発行を終了し、デジタル版のみでの配信となった。まだ大学に籍があった1980年代後半、同紙のレース課でアルバイトをしていた私としては、自分のキャリアの一部まで削られたような痛みを感じている。

 同じ1月31日、産経新聞社が発行していた夕刊紙「夕刊フジ」が休刊し、56年の歴史に終止符を打った。こちらも2014年に『虹の断片』を上梓したとき著者インタビューをしてもらうなど、直接関わったことがある媒体だけに、残念だ。これまでは「東京スポーツ」と「日刊ゲンダイ」、そして「夕刊フジ」という夕刊紙3紙がコンビニやキオスクなどにセットで並んでいたのだが、それが2つになってしまった。

 紙媒体が苦しいことは何年も前からわかっているのだが、やはり寂しい。

 先週末、家人が退院した。骨折した右足を上にして足を組んで座ったり、立ち上がるとき腿に手を当てて押し込むようにしたりすると股関節が外れやすくなるなど、いろいろ不自由なことはあるが、どうにか日常生活は送れるようになった。

 心配してくださったみなさま、ありがとうございました。

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