2021年のアブダビGPでホンダとフェルスタッペンのチャンピオン獲得を祝福するザック・ブラウン■【ギョロ目でチェック】連載復活にあたって
中日新聞社が発行するスポーツ紙『東京中日スポーツ』は、1956年に『東京中日新聞』として創刊。1970年代に『東京中日スポーツ』に改称され、長年『トーチュウ』の愛称で親しまれてきた。トーチュウとF1の関係は深く、『F1EXPRESS』というモータースポーツ専門のコーナーを設けて、どのスポーツ紙よりも多くのF1をはじめ国内外のモータースポーツや二輪の情報を伝えてきた。しかし、そのトーチュウが今年1月末で紙の印刷を休止してしまった(電子版は継続)。
これに伴い、筆者が執筆してきたF1の気になる話題を現場からお届けする『ギョロ目でチェック』コラムの連載も休止となったが、トーチュウのご好意とオートスポーツWEBのご理解によって、同じタイトルのままでオートスポーツWEBで掲載を継続することとなった。関係者の皆様に感謝するとともに、これまでトーチュウでギョロ目でチェックをご愛読していただいた読者の皆さんには今後もオートスポーツWEBで引き続き、ご愛読していただきたい。
連載復活の初回のテーマは、元ホンダの山本雅史氏が語るマクラーレン復活の予感とザク・ブラウンCEOからのメッセージだ。
■山本雅史が感じていたマクラーレン復活の伏線とザク・ブラウンの手腕
2024年のマクラーレンのコンストラクターズチャンピオン獲得は、かつての盟友で2021年までホンダのF1活動でマネージングディレクターを務めていた山本雅史にとっても特別な思いがあった。
山本がホンダのF1活動に参画したのは2016年。2015年にF1に復帰したホンダがパートナーを組んでいたのがマクラーレンだった。その年の11月、マクラーレンは株主総会で会長兼CEOだったロン・デニスを事実上解任。入れ替わるようにしてチームに加入したのが、ザク・ブラウンだった。
しかし、2017年は山本にとってもブラウンにとっても、厳しい一年となった。ホンダが開発したパワーユニットは性能も信頼性も目標に届かずにライバル勢に大きく水を開けられ、その年限りでパートナーを解消することとなった。
その後、ホンダはトロロッソにパワーユニットと手を組み、2019年からレッドブルへもパワーユニットを供給。2021年にはレッドブルとともにマックス・フェルスタッペンのドライバーズチャンピオンをサポートした。
チャンピオン決定戦となった2021年のアブダビGPでは山本はブラウンから「ドライバーズチャンピオン獲得、おめでとう」と祝福された。
当時、ブラウンはマクラーレン・レーシングの最高経営責任者(CEO)に就任して4年目のシーズンを送っており、マクラーレン復活のために、さまざまな組織改革を行っていた。そんなブラウンにとって、かつての盟友であるホンダの栄冠は大きな刺激なったに違いない。
山本は「いずれはマクラーレンがレッドブルのライバルになることを予感していた」と言う。その理由のひとつは、レッドブルでチーフ・エンジニアリング・オフィサーを務めていたロブ・マーシャルがマクラーレンへ移籍したことだ。山本はこう語る。
「2021年限りでホンダを退職して、2022年は自分の会社を立ち上げ、レッドブルとコンサルタント契約をしていました。その年の日本GPでのことだったのですが、鈴鹿でレッドブルのスタッフと食事をしたことがありました。その食事会にはレッドブルからはチーフエンジニアのポール・モナハン、長年スポーティングディレクターを務め、2025年からザウバーのチーム代表となるジョナサン・ウィートリー、そしてロブ・マーシャルが出席しました」
「その食事会で私が感じたことはロブの能力の高さとともに、レッドブルのスタッフから非常に慕われているということでした。2024年の9月にマクラーレンがレッドブルでチーフストラテジストを務めていたウィル・コートネイをスポーティングディレクターとして迎え入れると発表しましたが、あれもロブがマクラーレンへ移籍していたことが影響していたと考えています」
そのマーシャル移籍を画策していたのが、ブラウンだったと考えられる。ブラウンが交渉に長けた人物であることは、こんなエピソードからも伺える。山本はこう述懐する。
「2017年の4月に行われた中国GPのことです。ザックに『日曜日の朝に緊急ミーティングしたい』と言われて、ホンダの首脳陣とともにマクラーレンのホスピタリティハウスへ行ったんです。最高執行責任者のジョナサン・ニール、レーシングディレクターのエリック・ブーリエらとともに朝食をとりながら、ミーティングを行っていたんですが、朝食の途中で、ザクがこんな提案を出してきたんです。『いまの状況では、あのフェルナンド・アロンソでもモナコGPで優勝は無理だよな。だったら、フェルナンドの夢を叶えるチャンスに協力してくれないか』」と。
夢とは世界3大レース(F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間)制覇への挑戦だった。山本はこう続けた。
「ザクの提案は『フェルナンドをインディ500に出したいんだが、了承してもらえるか』というものでした。ザクは『幸いマクラーレンにはジェンソン・バトンという優秀なリザーブドライバーがいるから、モナコGPはジェンソンが走ればいい。ホンダはどう思う?』と迫ってきました」
ホンダのモータースポーツ活動はF1だけでなく、アメリカでは長年インディに参戦していた。山本をはじめホンダのメンバーにとっても悪い話ではなかった。
「話し合いがアロンソのインディ参加でまとまると、次の瞬間、ホスピタリティハウスのキッチンからアロンソが朝食用のオレンジジュースを持って現れてきたんです」
そう言って山本は笑うとともに、ブラウンの根回しのうまさに舌を巻いた。
その山本の目に狂いはなかった。ブラウン率いるマクラーレンはその後、着実に力をつけ、2024年にコンストラクターズ選手権を獲得。ホンダがレッドブルとともにドライバーズチャンピオンを獲得してから、わずか3年後のことだった。
かつての盟友に山本は祝福のメッセージを贈った。
「あなたのマネージメント能力の高さはマクラーレン・ホンダ時代から尊敬していました。ホンダがマクラーレンと別れた後、マクラーレンはさまざまな困難な時期が訪れたと思いますが、そんな状況でもチームをひとつにまとめあげ、さらに優秀な人材を集めて体制を強化した手腕はさすがです。2024年にマクラーレンが1998年以来のコンストラクターズ選手権を制したのは、あなたがいたから。2025年はドライバーズチャンピオンも含めてダブルタイトルを狙うチャンスの年。楽しみにしてます」
メッセージを見たブラウンは山本へこう返信した。
「親切なメッセージをありがとうございます。本当に特別なシーズンでした。日本GP鈴鹿でお会いしましょう」
ホンダの第4期F1活動での最初の3年間はたしかに苦しい年月だった。しかし、あの経験がホンダを鍛え、マクラーレンにとっても組織を見直す良いきっかけとなったことは間違いない。マクラーレンとホンダにとって、決して無駄な3年間ではなかった。