松本零士さん三回忌「ブラックホールのその先の宇宙を見てみたい」愛娘に語っていた“逝去後の夢”

2

2025年02月23日 11:10  web女性自身

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

web女性自身

写真

【前編】松本零士さん三回忌「なんて失礼なヤツだろう」家族が明かした手塚治虫宅での“運命の出会い”より続く



《僕は漫画という星の海を旅しているのである》、自伝『遠く時の輪の接する処』を、そう締めくくっていた松本零士さん(享年85)。大宇宙を舞台にした数々の名作を世に送り出した作家が逝去して、すでに2年。3月13日に三回忌を迎えた。その人間味あふれるエピソードを家族が明かした――。



「幼いころ、母(※漫画家の牧美也子さん)は徹夜をしていても私が起きると、必ず自分で朝食の用意をしてくれました。授業参観や運動会などに来てくれたのも母でした。



昼と晩の食事や生活の世話をしてくれていたのが、両親は“おばさん”、私は“ばばちゃん”と呼んでいた明治生まれの女性。もともとは母の下宿で賄いをしていた方で、母が結婚するときに、『夫婦で漫画家の生活は大変だろうから、私がついていくわ』と来てくださったそうです。わが家が平和な家庭でいられたのは、ばばちゃんの存在が大きかったと思います」



そう語るのは松本零士さんの長女で、漫画製作スタジオ・(株)零時社代表取締役の松本摩紀子さん。妻・牧美也子さん(89)が徹夜明けで食事の支度をしていたときなど、松本さんはどうしていたのか。



「父ですか? 寝てます(笑)。われ関せず、です。私が小学生のころ、牧がインフルエンザにかかって。その間も松本は徹夜で仕事です。そして3日ぶりに牧が起きてきたとき、父がぽつりと、『あれ、今までどこいたの?』って。仕事に入ると、周囲のことはわからなくなるんでしょうね」



映画化された『銀河鉄道999』がゴダイゴの歌う主題歌とともに大ヒットしたり、当時の国鉄がコラボ乗車券を発売するなど、松本零士ブームは社会現象の様相を呈していく。



「『999』のヒットは私が中2のときなんですね。すると、私自身は平凡な人間なのに、“松本零士の娘の”という枕詞がついてまわって。正直、松本零士の娘でいるのは、つらかったですね。やっぱり、両親が漫画家のわが家は“ふつう”じゃないのかな、と。10代なりに自分って何者だろうと考えるようになり、目立たない生活を心がけるようになってました」



ふと学校に行きたくないと、松本さんに打ち明けたこともあったという。



「いわゆる思春期の悩みです。すると父はひと言、『どちらか、はっきりしろ!』とだけ。 つまり、行くも行かないも自分で決めろということ。とにかく父は、はっきりしないのが大嫌い。父の助言はふだんの会話が少なかっただけに、くぎを刺されるというより、私にとってはトドメを刺されるような重さでした。



そんな姿勢は、父の女性観にも通じるように思います。優柔不断で『どっちか選べな〜い』なんて言う女性より、『あんた、なにやってるの!』とピシャリと言ってくれる女性が好みだったのでは」



それは、はかなげに見えて実は芯が強い、メーテルはじめ松本漫画に描かれる女性像にも通じるだろう。そして、妻の牧さんにも……。



「そうですね。うちの母は、はっきりした性格です。あるとき、なにかの拍子に父が、『あれは気の強い女だよ』と母のことを言いました。父にとっては、女性に対する最高のほめ言葉だったのでしょう」



やがて、摩紀子さんも大学を卒業して社会に出るときを迎える。いったんは映画興行関係の職に就いたが、すぐに両親の仕事場の食事の世話などを担当するようになり、いつしか、そんな生活が30年も続いていた。



「みんなが若いころは、夜食にトンカツを作ることもありましたね。ときにはホットプレートを2台出してきて焼きそば大会。



両親の定めた食事のルールが、『みんな一緒に同じ釜の飯を残さず食べる』。ところが、当の父はときどき『わしは、これは好かん!』なんて、わがままを言いだします(笑)。海の近くで育ったのに生ものが苦手だったかな。でも、常に臨戦態勢でしたから、みんなで囲む食卓が唯一ホッとできるときで大切な時間でした」



’20年には両親が設立した2人のための漫画製作スタジオ「零時社」の社長に就任した摩紀子さん。多忙な日々を送っていた母と娘に、松本さんとの別れは突然訪れた。



「父は’19年のイタリア出張中に倒れましたが、回復してペンを握っていました。本人も『俺は100歳まで生きる』と言っていて、私たちもそのつもりでいました」



松本さんの生前、父娘で宇宙の話をしていて、ふと尋ねたことがあったという。



「お父さん。もし死んだら、どこに行きたい?」



そんな摩紀子さんの問いに、父は、



「ブラックホールのその先の宇宙を見てみたい。魂になったら、どんな重力にもつぶされずに行けるはずだからな」



摩紀子さんは、そんな会話を思い出しながら、現在は松本さんの仕事場の整理もしている。



「残された大量の原稿を1枚1枚見ていくと、手描きのペンの勢いまで伝わってきて、一つのことをやり遂げようとする信念に圧倒されます。当時はほとんど会話もしてませんし、気にもしてなかったのですが、ああ、父はまさに命懸けで描いていたんだなと、整理する手が思わず止まって見入っていたり。だから、なかなか片づけが進まなくて……」



ふと、「原稿にさわっちゃダメだ」という父との約束を交わした幼い日を思い出したのか、摩紀子さんが泣き笑いのような表情になる。



「仕事場での父は、常に黙々とペンを動かしていて、私は下を向いている横顔しか見てなかった。おまけにいつも忙しくて、だから親子の時間もあまりなかったわけですが、原稿を見ているうちに父の思いにふれられた気がしたんです。残された原稿を通じて、父と会話できている私は、本当に幸せな娘だと思いました」



時空を超えて「星の海」にいる父から届いたメッセージは、あのころと同じ温かさで一人娘の背中を押してくれているのだ。





■水木しげるさんの長女からの助言は、「父親のことを語り継ぐのは私たちの役目」



「うーん、難しい。どれも好きですが、一つと言われれば、『男おいどん』ですね」



牧さんに、夫の作品で好きなものを尋ねると、こんな答えが。摩紀子さんにも聞いてみると、



「母の作品は、少女漫画のころの全体的な絵のセンスが好きです。かわいらしい洋服とか、花や葉のしずくの透明感とか。



父の作品で好きなキャラは、猫の“ミーくん”。わが家には、ミーくんという名の猫は4代目までいて、いつも私のそばにいてくれる家族の一員でした」



夫を、そして父を失って、2年の歳月が過ぎた。



「ようやく最近、母とは『また旅行をしたいね』と話しています。漫画の仕事だけでなく、来客も多い家でしたので、牧も私も家から出られない忙しさでした。ですから、周囲の許しを得て年に一度、母娘2人旅をするのが近年の楽しみだったんです。



親子3人の旅ですか? 物心ついてからは、たったの一度きりです。たしか’92年に長崎のハウステンボスの開業に招かれて行きました。でも父は締切りが心配だったようで落ち着かず、私も覚えてるのは中華街で食べたチャンポンがおいしかったことぐらい(笑)」



かつては目立たないよう生活していた摩紀子さんだが、現在は表舞台に出ることも心がけている。



「5年ほど前に水木しげる先生のご長女の原口尚子さんと知り合いました。水木先生もお亡くなりになりましたが、尚子さんからは『父親のことを語り継ぐのは私たちの役目』と助言をいただいたんです。



松本自身、『自分たちはDNAを運ぶ舟なんだ』と言っていましたが、原稿の整理をしていて、父が残した作品にも、またDNAがあり“命を運んでいる”と気づいたんです。ですから、それらを大切に未来につなげていきたいと思っています」



『銀河鉄道999』と『宇宙海賊キャプテンハーロック』の連載開始50年を前にして「50周年プロジェクト」も動き始めている。今年6月からは六本木ヒルズ展望台「東京シティビュー」で「松本零士展 創作の旅路」も開催されるため、摩紀子さんもその準備で、さらに忙しい日々を送っている。



「仕事場の整理により初めて見つかった原画も展示される予定です」



愛とロマンがあふれる作品とともに「松本零士の宇宙」は、これからも無限に広がってゆく。



(取材・文:堀ノ内雅一)

動画・画像が表示されない場合はこちら

動画・画像が表示されない場合はこちら



このニュースに関するつぶやき

  • 松本零士さんの娘さんは摩紀子さんていうのか。昭和52年頃に読売新聞の日曜版に松本さんが『ちいさなマキ』という漫画を連載してたね。コミックスを買った気がするけど、記憶があやふやだな。
    • イイネ!0
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(2件)

ニュース設定