【今週はこれを読め! SF編】翻訳の秘術〜R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』

0

2025年02月25日 11:40  BOOK STAND

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

BOOK STAND

『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史 上 (海外文学セレクション)』R・F・クァン
 R・F・クァンは中国広東省で1996年に生まれ、2000年に家族とともにアメリカに移住。中国研究などの分野でアカデミックな経歴を積むいっぽうで、2018年に長篇ファンタジイでデビュー。第四作にあたる本書『バベル』を2022年に発表すると、たちまち話題になり、各種のベストセラー・リストにランクインし、世界各国でつぎつぎに翻訳。いくつもの文学賞を受賞しており、SF関係の賞ではネビュラ賞とローカス賞に輝いている。
『バベル』は大英帝国が覇権を握る1830年代を舞台にした架空歴史ものであり、魔法を研究する青年たちが主要キャラクターとして活躍する学園青春小説でもある。
 斬新なのは、その魔法のありようだ。
 異なる言語のあいだの意味のズレを用い、銀を媒介にして作用する翻訳の秘術。たとえば、英語のbleach(漂白)という単語と、印欧祖語の語幹bhel(輝く白、光輝くこと、燃えること)に由来した単語を、ペアとして、銀の棒の両側面に刻印する。すると、衣服を一時的に白くしたり、触れると火傷するくらい熱くすることができる。単語のペアは、語学的な知識がなければ扱えない。また、特定のペアがどのような効果を発揮するか、あらかじめ予測できず、実際に試して検証するしかない。単語ペアのなかには、尋常ならざる威力を発揮するものもある。
 世界中の言語を研究し、魔法の開発と銀製品づくりをおこなっているのが、学術都市オックスフォードにある王立翻訳研究所「バベル」だ。送りだされた銀製品は、生産現場・インフラ・交通・軍事・生活......あらゆる場面で社会を支えている。
 主人公ロビン・スウィフトは幼いころ、疫病が蔓延する中国広東の場末から、リチャード・ラヴェル教授に拾いあげられた。ロビン・スウィフトという名前はその後につけられたもので、彼の記憶にあるのは死んだ母の面影くらいで、出自に関することは不明だ。ラヴェル教授もいっさい話してくれない。ただ、ロビンの語学能力を見こんで、手厚く厳しい教育を施すばかりである。母語である中国語、普段の生活で用いる英語のほか、ラテン語、ギリシャ語を学んぶ毎日。
 成長したロビンは教授が望むまま、バベルに入学する。集積された書物、知識、設備、施されたセキュリティ......バベルはオックスフォードきっての驚異だった。ロビンは魅了される。
 また、そこに集まった人材も特徴的だ。オックスフォードのなかで、バベルだけがヨーロッパ出身者以外を受けいれている。言語の研究、銀の魔法開発に資するからだ。ロビンは先述したとおり中国系。彼が最初に親しくなった同級生ラミーは、カルカッタ出身のイスラム系である。そのほかの同級生は、ふたりの女性だ。ハイチ出身で黒い肌のヴィクトワールはパリを経由し、苦労してバベルにたどりついた。ブライトン出身のレティは、父親が女の教育には金を出さないと言ったが、奨学金を得て入学できた。
 バベルがなければこの国で行き場がないという事実が、四人を結びつける。バベルで学べること自体が特権だが、その特権はいつ失われるとも限らないことを、彼らは実感している。キメ細かい綾で描かれるこの四人の友情が、この作品の読みどころのひとつだ。かけがえがないほど美しく、そして残酷な悲劇をはらんでいる。
 バベルの充実に目を見張り、素晴らしい同級生を得てまもなくの夜、ロビンは図書館を出た通りで奇怪な三人の盗賊と遭遇する。彼らは銀を盗みだしており、逃走するときに、不完全ながら翻訳の秘術を用いていたのだ。ロビンをもっとも驚かせたのは、盗賊のひとりが自分とそっくりな顔をしていたことだ。のちに、彼らは反体制結社ヘルメスのメンバーであることがわかる。
 恩師ラヴェル教授が秘めた謎。 ロビン、ラミー、ヴィクトワール、レティの鋭角的な友情。 反体制結社ヘルメスの暗躍。
 この三つを軸として、波瀾の物語が動きだす。三軸は並行ではなく、軋むように交差しながら、ロビンの人生を、そしてバベルの運命を揺るがすのだ。
 瞠目すべきは、ダイナミックなストーリー展開だけではない。それと相即して、テーマが精緻に浮き彫りになる。つまり、帝国主義であり文化の簒奪である。銀と翻訳は、支配的イデオロギーや自明化したシステムを旋転させる資源・媒体なのだ。ただし、この資源・媒体は両義的であって、イデオロギーやシステムへの反抗においても、銀と翻訳が重要な役割をはたす。
 この作品は1830年代の英国に設定されているが、作者クァンが提起する問題は現在もなお----いや、むしろあらゆるレベルの国際化が進んだ現代だからこそいっそうに----切実な状況として、私たちに迫ってくる。そう、これはまさにこの世界の物語なのだ。
(牧眞司)


『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史 上 (海外文学セレクション)』
著者:R・F・クァン,古沢 嘉通
出版社:東京創元社
>>元の記事を見る

    前日のランキングへ

    ニュース設定