
「まだまだ、自分のなかで完成していないというか、80パーセントくらいにも来ていない」
こちらの問いに間髪入れず、錦織圭は、そう言った。3月中旬にアメリカで開催されたATPチャレンジャー大会「アリゾナ・テニス・クラシック」の初戦後のことである。
南カリフォルニア州のインディアンウェルズとフロリダ半島先端のマイアミで開催されるATPマスターズ1000は、その温暖で陽光に恵まれた気候から「サンシャイン・ダブル」と呼ばれている。
そのふたつの大会と都市の間に存在するアリゾナ州フェニックスに、チャレンジャーが発足したのは2019年。BNPパリバ・オープン(インディアンウェルズ)で早期敗退した選手たちの救済処置的な意味合いもあり、立ち上がった大会だ。
錦織がこの大会に出場するのは、今回が初めて。その理由を、彼は次のように語った。
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「インディアンウェルズはまあまあよかったですけど、もうちょっと一定のラインまで戻したいので、試合数をこなしたいっていうところがあるし。なんかまだ、全然駄目なんで。もうちょっとクリックするのを待つというか、ひらめきというか、感覚をつかむのを待ちですね」
その「クリック音」を、錦織は2回戦の対ミハイル・ククシュキン(カザフスタン)戦で聞いたかもしれない。ククシュキンとは過去に10度対戦し、そのすべてを錦織が勝利している。ふだんは過去の対戦成績に比較的無頓着な錦織が、ククシュキンに対しては「よく勝っている相手」だと認識していた。
無回転に近いクセ球使いのカザフスタン人は過去最高39位で、37歳の今は166位につける。その同世代のベテランとボールを打ち交わした時、錦織は「予兆もなく突然に、いい感覚がきた」と言った。
この試合は相手の体調不良による棄権で終わるが、手に刻んだ好感触は翌日にも残る。3回戦ではフラビオ・コボッリ(イタリア)に6-2、4-6、6-4のフルセットで勝利。スコアこそ競って見えるが、世界40位の22歳相手に終始主導権を掌握した。
【スライスの参考は20歳の伊藤あおい】
加えるならこの試合での錦織は、ある試みをしているようにも見えた。
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それは、スライスの多用──。相手の球威と闘志をいなすかのように、逆回転をかけたショットをスルリと繰り出す。それもバックハンドのみならず、フォアでも2本、3本と続けて放っていた。
思えば「スライスの重要性」は、錦織が日本のトップジュニアを対象としたセミナーでも、熱く伝えていたことだった。
「スライスは本当に大事。グリゴール・ディミトロフ(ブルガリア)が33歳になってもトップ10に入り、カルロス・アルカラス(21歳/スペイン)やヤニック・シナー(23歳/イタリア)とも戦えているのは、スライスがあるのが大きいと思います。そういう器用さは、フィジカル的にあまり恵まれていない選手には必要かなと思うんです」
昨年末、そんな言葉を錦織の口から聞いた。
それはおそらく、ジュニアだけでなく、自分自身にも言い聞かせていることなのだろう。
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実際に、今大会での錦織に「以前よりもスライスを使いたいという思いがあるのか?」と問うと、「あります、全然あります。全然あるけど、使えてないです」との言葉が返ってきた。
「『使いたい、使いたい』と思いながらも、なかなか使えなくて。本当はもっとスライスを混ぜたいんですけど、たぶん自分のバックが打てるし、十分通用するので、それに慣れちゃっている。今日(3回戦)はけっこう風もあったので、スライスを混ぜたらイヤらしいかなとか思ったんですが......」
もどかしそうに思いを紡ぐ彼は、「ちょっと、あおいちゃんを目指しながら」と、小さく笑いながら続けた。
錦織がここで言う「あおいちゃん」とは、ここ半年ほどで急激に頭角を現した20歳の「伊藤あおい」のことだ。
現在106位につける彼女の持ち味は、なんといってもフォアのスライスにある。相手の強打をいなし、前後左右に揺さぶり、自分のペースに引き込むそのユニークなスタイルで、伊藤ははるかにパワーで勝るツアーの手練れたちを破ってきた。
【錦織が気になっている18歳の新鋭】
錦織の「あおいちゃんを目指して」には幾分のリップサービスもあるだろうが、同時に、いかに今の錦織がスライスを重視しているかも映す。その狙いはやはり、次の言葉にあるだろう。
「やっぱり、若い選手たちと打ち合い続けても、たぶん勝てないんで。ここで何か違うショット混ぜないといけないっていうのは、最近、特に感じます」
その錦織の新たな戦術を試すうえでも、格好の相手が準決勝の舞台で待ち受けていた。彼の名はジョアン・フォンセカ(ブラジル)。今年2月のアルゼンチン・オープンでATPツアー初優勝を手にしたばかりの、今テニス界で最も眩い光を放つ18歳である。
錦織自身も17年前に、18歳でセンセーショナルなツアー初優勝を成し遂げた。そんな縁もあってか、錦織はフォンセカの存在を「めちゃめちゃ気になっています」と言った。とりわけ錦織も目を見張るのが、フォアハンド。
「やっぱり、球の速さは光っていますよね。アルカラスみたいな感じで、フォアの強さが光っているいい選手だなと思います」と、最大級の評価を与えた。
果たしてアリゾナで実現した「新旧・衝撃の18歳対決」は、結果から言うならフォンセカが6-3、6-3で勝利。
18歳のバウンド後も低く伸びる強打を、錦織は跳ね際を叩いて渡り合った。ただ、ラリーを続けてもフォンセカのショットの精度は落ちるどころか、むしろより深く、鋭く刺さる。
なにより、フォンセカのピンポイントで打ち込まれる高速サーブからの展開を、錦織はなかなか攻略できない。自身はブレークできず、相手には両セットともにひとつのブレークを許した。
錦織のコーチのトーマス・ヨハンソンは「試合前には、もっとスライスを使っていこうと話していた」と明かす。「ただ、あそこまで速いショットを深く打ち込まれると、それも難しい。フォンセカはすばらしいプレーをした」とも厳しい顔で続けた。
【世界ランキングは64位まで上昇】
試合後の錦織も、「最初から速かったですね」と、相手のスピード感に言及する。それは、単に球速だけではない。
「ほかの選手より展開も速いし、少しでも甘いボールを与えると振ってくる。その速さに、ちょっとついていけなかったですね。タイミング早く、あれだけの球を打たれると......」
視線を落とし、錦織はポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
思えば、シナーやアルカラスら「新世代」と対戦することが、ケガで戦線離脱していた間、錦織をコートに駆り立てた大きなモチベーションだった。今回のフォンセカとの対戦は、テニス界の勢力図を書き換える、新時代のテニスに触れる好機でもあったろう。
今回のアリゾナ・チャレンジャーで錦織が求めたのは、ボールがラケット面に吸いつくような「感覚」と、「ランキングポイントを取る」こと。
感覚は「少し戻った」と言った。ランキングは64位に上昇した。そして新時代のテニスと対峙し、そのスピードを肌身で知った。それら今大会で得たすべては、次につながる大きな収穫だ。