王者Suicaに挑むタッチ決済、その実態と課題

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2025年03月22日 08:30  ITmedia ビジネスオンライン

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Suicaより遅い? クレカのタッチ決済、改札の反応速度

 「お父さん、早くしてよ!」。駅の改札で子どもに声をかけられた。家族で行楽に向かう最中、電車に乗るにあたり日本の交通系ICカードの王者Suicaではなく、クレジットカードのタッチ決済で電車に乗ろうと試みたのだ。


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 Suicaは、プラスチックカードやスマホに設定したモバイルSuicaを改札にタッチすれば、「ピッ」という音とともにゲートが開き、一瞬で改札を通ることができるおなじみの仕組み。いわゆる交通系ICカードだ。


 後発のクレジットカードのタッチ決済での乗車も、ユーザーの体験は一見同じ。Suicaとはかざす場所が違うものの、カードやスマホをかざせば「ピロリン」という音とともにゲートが開く。


 ただ、これがSuicaと全く同じ体験かというと、実はそうでもない。冒頭で、子どもに急かされたのは、タッチ決済ならではの使いにくさがあるからだ。最大のネックはスピードにある。Suicaが約0.2秒という速さの反応であるのに対し、タッチ決済の乗車は約0.25〜0.35秒。スペックだけ見ると大差ないように感じるが、いざ使ってみると、意外なストレスになる場合がある。


 「ピッ」「ピッ」とリズムよく人が改札を通過していく間に、一人だけタッチ決済乗車が交じると、1テンポ開けて「ピロリン♪」となる。後ろの列は全員が一時停止を余儀なくされる。リズムを崩すことこの上ない。


 スマートフォンでのタッチ決済にも課題がある。タッチ決済乗車のシステムを取り扱う三井住友カードによれば、「プラスチックカードよりもスマートフォンの方が認証速度が速い」という。しかし、それは機種やOSによっても異なる。iPhoneなら、Suicaと同じようにエクスプレスカードとして設定しておけば、スマホをロック状態のまま改札にかざすだけでOKだ。


 一方、Androidはやっかいだ。仕組みとしては決済ごとに優先するカードを設定でき、エクスプレスカード的に使える。しかし、タッチするとエラーが出て、ウォレットからカードを選択してタッチし直さないとうまくいかない場合がある。筆者が利用しているPixel 9ではどうにもうまくいったことがない。


 ターミナル駅などでは、入場と出場が同じ改札になっていることが課題となる。特に混雑時には、入場しようとする人が、途切れることなく続く出場者の列を待つ場面が多い。現在、タッチ決済対応の改札は幅広で、乗降どちらにも対応できるタイプが多いが、その分、混雑時にはなかなか入場できない状況が発生しやすい。


 正直、都内で日常的に通勤通学をするユーザーにとっては、タッチ決済乗車よりもSuicaのほうが圧倒的に便利だ。処理速度の違いは、通勤ラッシュ時には無視できない差となる。


●インバウンド対応が推進の原動力


 では、なぜ鉄道各社はタッチ決済乗車を推進しているのか。一つはインバウンド対応にある。首都圏で初めてタッチ決済に対応した江ノ島電鉄の嶋津重幹常務取締役は、「外国人観光客の利用が多い。自国で日常的に使っているクレジットカードがそのまま使えるタッチ決済は、券売機での切符購入や係員への問い合わせといったストレスから解放され、客と係員双方に非常にメリットがある」と語る。


 実際、海外でのタッチ決済乗車の利便性は見逃せない。筆者が2024年にシンガポールを訪れた際、地下鉄は全面的にタッチ決済に対応しており、日本から持参したクレジットカードをかざすだけで乗車できた。専用ICカードの購入やチャージの手間なく、一瞬で改札を通過できる快適さは印象的だった。以前は現地で交通カードを買い、残額が余っても払い戻しの手続きが面倒で諦めることが多かったが、その課題が一気に解消された。


 タッチ決済乗車のメリットはインバウンド対応に限らない。日本国内でも、全鉄道がSuicaに対応しているわけではない。熊本県内のある事業者のように、交通系ICカードを廃止してタッチ決済乗車に移行するところも出てきた。理由の一つはコストだ。熊本県の例では、交通系ICカードの更新費用が12億円であるのに対し、タッチ決済は7億円程度で済むという。


 ただし、各事業者がタッチ決済に関心を寄せるのは、コストだけではない。本命は、国土交通省も進めるMaaS(Mobility as a Service)への対応だろう。国土交通省のWebサイトなどによると、MaaSは「地域住民や旅行者一人一人のトリップ単位での移動ニーズに対応して、複数の公共交通やそれ以外の移動サービスを最適に組み合わせて検索・予約・決済などを一括で行うサービス」と定義されている。要は「切符を買って乗る」だけだった従来から、「さまざまな移動手段や支払い方法をスマホなどで一括して利用できる」よう進化させたものだ。


●MaaS革命の先兵「Pass Case」の登場


 3月13日、MaaS革命の重要な一手として、三井住友カードが総合交通アプリ「Pass Case(パスケース)」を発表し、江ノ島電鉄が導入した。Pass Caseはタッチ決済乗車の認証基盤である「stera transit」を活用したMaaSプラットフォーム上で動くアプリだ。三井住友カードが展開するこのMaaSプラットフォームでは、企画乗車券や定期券、住民割引や往復割などを共通機能として提供する。


 三井住友カードのTransit事業推進部長石塚雅敏氏は「さまざまなアプリに、同じ方法でサービス展開をしていきたい」と説明する。Pass Caseは三井住友カードが展開するショーケース的なアプリとして位置付けられており、自社アプリを持つ交通事業者は、そのアプリからstera transitに接続してMaaSサービスを提供できる。また、自社アプリを持たない事業者はPass Caseを活用することも可能だ。石塚氏は「各事業者の戦略はさまざまで、自社のアプリの接点がメインである事業者もあれば、逆に自社にアプリをそもそも持っていないという事業者もある」とし、各事業者に合わせた展開を支援する。


 この新プラットフォームは、交通DXの中核を担う役割を果たす。これまでのMaaSでは、カードで購入して乗るときは紙券を使う、あるいはカードで購入して乗るときはQRコードで認証するなど、購入と乗車が分断されていた。Pass Caseは、交通チケットをクレジットカードで購入し、そのまま同じカードをタッチして乗車できる仕組みだ。石塚氏は「購入と乗車が一体化することで、お客さまの移動体験がより快適になる」と革新性をアピールする。


 なお、現在はApple PayやGoogle Payによる決済や、スマホをかざすモバイルタッチによる乗車には対応していない。しかし、三井住友カードによれば、これらは2026年3月までに対応予定だという。


 タッチ決済による公共交通機関向けソリューション「stera transit」は、2024年度末には全国約180社、2025年度には230社の交通事業者への導入が見込まれている。現在は月間約350万件の利用があり、すでに183カ国のカードが利用されている。石塚氏は「数年先にはこの350万件が、数億件レベルまで拡大する」と予想する。


●広がる可能性と江ノ電の事例


 Pass Caseで取り扱うサービスの第一弾として、江ノ島電鉄の1日乗車券「のりおりくん」が選ばれた。従来、この乗車券は駅の券売機や窓口での購入が大半を占めていた。江ノ島電鉄の嶋津氏は「混雑時には列に並ばなければいけない、あるいは現金を用意しなければいけないなど、お客さまには不便をかけていた。Pass Caseにより、いつでもどこでも事前に『のりおりくん』を購入できるようになる。駅に着いたらスマホを出すことなく、カードをそのままタッチして電車に乗れる」と期待を示す。


 Suicaにはできなかった利便性が生まれてくる。例えば定期券だけにとどまらず、1日の乗車金額が上限になるとそれ以上は課金されないキャップ制や回数割、住民割なども実現できる。さらに宿泊や買い物などと乗車券を組み合わせた企画乗車券も可能になる。


 江ノ島電鉄は混雑分散化を課題としており、「移動データを分析し、旅客波動に合わせて分散化に寄与するようなお得なチケットを販売することなども考えていきたい」と嶋津氏は述べる。また、クレジットカードの強みである属性や消費動向のデータを活用し、「一人一人に適した提携店を提案するような仕組みができれば、お店の売り上げにもつながり、江ノ電としても地域経済の発展に微力ながら貢献できる」と期待を寄せる。


●王者Suicaの反撃と交通DXの行方


 もっとも、現在の覇権を握るSuicaも新興勢力の台頭を前に静観しているわけではない。JR東日本は「Suica Renaissance」を発表し、今後10年をかけてMaaS時代に対応する態勢を整えていく。王者の反撃は「Suica アプリ(仮称)」をベースとし、マイナンバーカードとの連携により、地域内の生活コンテンツやサービス(地域割引商品やデマンドバスなど)の提供、商品券や給付金の受け取りや行政サービスの利用を実現するという壮大なビジョンだ。これは単なる交通系ICカードからの脱却を意味し、DXによる生活プラットフォームへの変革を目指している。


 さらに、移動や生活シーンでのSuicaの利用データを活用し、「旅行時に新幹線が到着したらタクシーが待っていたり、帰宅時にお風呂が沸いていたりする『おもてなし』サービスや、お客さまの健康状態に合わせた食事のレコメンドをする『お気遣い』サービス」も実現するとしている。


 MaaSを軸として、タッチ決済が切符の電子化から一歩先に向かい、王者Suicaも追いかける構図だ。


 なお、大掛かりな展開とは別に、タッチ決済については早急に解決してほしい課題もある。交通費精算への対応だ。SuicaやPASMOはICカード自体から履歴を読み取ることや、JRのサーバーから乗降駅と日付金額のデータを取得して、会計ソフトと連動させることが可能だ。ところがタッチ決済は、カードの明細に乗降駅などの詳細が記載されない。


 この課題に対しては、タッチ決済の裏側のシステムを作っているQUADRAC社が「Q-Move」というサイトで乗降履歴を提供している。ただし、会計ソフトがQ-Moveに対応していない点や、Q-Moveのデータ保存期間が365日しかないといった問題がある。365日という保存期間では、確定申告作業を始める2月頃には前年1月〜2月初めのデータがすでに消えてしまっているため、前年分のデータを年末にダウンロードしておく必要があるなど、実務上の不便さが解消されていない。


 日本の公共交通システムの覇権をめぐる戦いはここから本格化する。長年にわたりSuicaが築き上げてきた王座に、タッチ決済を軸としたMaaS革命の波が押し寄せている。使い勝手や互換性、データ活用の可能性など、さまざまな観点からの競争が予想される。消費者はこの激しい競争の恩恵を受けるとともに、最終的に交通DXがもたらす未来像を見極めることになるだろう。


(斎藤健二、金融・Fintechジャーナリスト)



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