
「じつは、いまだから言えますが......」
自身のセンバツ初勝利を挙げたあと、横浜高・村田浩明監督はそう切り出した。
「先発した織田(翔希)は、こっちにきてから胃腸炎で体調を崩し、点滴を打っていたんです。それでも『甲子園のプレッシャーをはねのけられるかが、織田の"第2章"だ』と先発を託しました」
【松坂世代の再来なるか?】
市和歌山との1回戦。大会屈指と言われるその大物2年生・織田は初回、いきなり自己最速を更新する152キロをマークするなど、5回を5安打2失点(自責1)と試合をつくる。
6回からは、二本柱のもう一本・奥村頼人が無安打投球を見せ、打っても4番として3安打1打点で、市和歌山に4対2。優勝候補の筆頭に挙がる横浜が白星発進した。横浜はこれで新チーム結成以来、公式戦無敗の16連勝。
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昨秋の明治神宮大会では、松坂大輔がエースだった1997年以来の優勝を飾っており、センバツ初戦で16連勝は神宮、春夏の甲子園、国体と無傷の44連勝で4冠を達成した松坂世代と同じ足取りだ。
村田監督自身、松坂世代とは切っても切れない縁がある。小学生時代に神奈川・川崎市の軟式チームに所属していた村田監督は、全日本学童軟式野球で神奈川の決勝まで進出しながら、惜しくも敗れた。翌日の新聞に掲載された結果を見て悔しさがこみ上げたが、なにげなく下の記事に目をやると、横浜・渡辺元智監督(当時)のことが書かれていた。その記事が、やけに心に残った。
1986年生まれの村田少年の小学6年時といえば98年。そう、松坂擁する横浜が春夏連覇を達成し、高校野球史に太字で記される年だ。新聞記事を見たのはおそらく5月頃で、その時点ではまだ連覇の途上だが、村田少年は憧れとともにこう思った。自分もこのチームで、渡辺監督の横浜高校で野球をしたい──。
それを貫いて横浜に進学すると、2年だった03年センバツでは、捕手として準優勝。1学年上の成瀬善久(元ロッテほか)、同学年の涌井秀章(現・中日)が投の二枚看板だった。
04年には、福田永将(元中日)が入学して控えに甘んじたが、5月末に脳梗塞で入院した渡辺監督不在のチームを主将として統率し、夏の神奈川を制して甲子園でもベスト8。その人間力は、チームメイトが「村田がキャプテンでなければ、バラバラになっていた」と評価するほどだった。
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渡辺監督も村田を高く評価し、在学中から「指導者になれ」と道を示したという。なにしろ、小学生時代に憧れた指導者の言葉である。村田は日体大に進んで教師を目指し、在学中には母校の練習を手伝うこともあったという。それでも、だ。「渡辺監督には『私は県立で勝負します』と宣言したんです」と、村田から聞いて驚いた。
【恩師に背中を押され母校の監督に就任】
神奈川では母校・横浜のほかにも東海大相模、桐光学園、慶應義塾......と強豪がひしめいている。そのひとつである横浜商は市立だから、県立校の夏の甲子園出場となると1951年の希望ヶ丘までさかのぼり、センバツでも54年の湘南と、その時点で50年以上前。今センバツの21世紀枠・横浜清陵は、県立としては71年ぶりの出場で、つまり「神奈川から県立で甲子園へ」というのはほとんどミラクルなのだ。
だが村田はあえて、そのミラクルに挑んだ。日体大を卒業すると「奇跡的に20倍という高い倍率の採用試験をパスして」、まずは県立霧が丘に赴任し、野球部長を務めた。13年に異動した白山では部長を経て監督になると、「打撃練習が終わったら帰りたがるような生徒たち」を徐々に鍛え上げ、18年夏には北神奈川大会でベスト8にまで進出している。「県立で甲子園へ」という夢に、ちょっとずつ近づいていたわけだ。
その矢先、19年のこと。母校・横浜で指導者の不祥事が発覚する。
「後任はだれがいい?」
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白羽の矢が立ったのが、村田監督だった。渡辺監督に憧れ、渡辺監督が率いるチームで育ち、指導者になった。母校愛は人一倍強い。その母校が不祥事にあえいでいる。なんとかしたい。
その一方で、「県立で甲子園へ」という夢も近づいていた。迷いに迷った。それでも恩師・渡辺監督の「オマエしかいない」という声に背中を押され、県立校の教諭という立場を捨てて母校の監督に転じたのは、20年の春だった。
その頃の神奈川は、東海大相模の時代だった。11年センバツ、15年夏、21年センバツで全国制覇。対して、横浜の優勝は06年センバツまでさかのぼる。その後も甲子園には出場するものの、3回戦進出が最高成績。長く神奈川で2強を形成してきたが、村田の監督就任当時は相模の圧倒的リードと言っていい。
母校に戻った村田が愕然としたのは、在学時とすっかり様変わりしていたことだ。時代とともに変わっていくのは当然としても、自分を育ててくれた横浜野球の規律や緻密さなど、いい部分までもが薄れてしまっていた。
「今は鍛えに鍛えて、組織をしっかり確立できるようにしているところです。あの98年夏、小山(良男/元中日)さんが甲子園の開会式で宣誓したように、夢と希望と感動を与えられるチームをもう一度つくりたい」
その初年度はコロナ禍に見舞われたが、2、3年目には夏の甲子園出場を果たした。そして現チーム。全国屈指の二本柱と、旧チームから2年生キャプテンを務めた阿部葉太ら、才能豊かな野手陣を擁し、19年ぶりの頂点を目指すにふさわしいチームを育て上げた。
思い出すのは、昨年の神宮大会初日のこと。たまたま出会ったある監督が「(優勝は)横浜でしょ」と予想し、そのとおりに優勝したのだ。このセンバツも、優勝予想の大本命。
「松坂さんたちは44連勝しているので、それに近づけるように向かっていく日々です」
そう村田監督は言った。沖縄尚学との2回戦は、24日の予定。織田に示した言葉になぞらえれば、「第1章」が秋の神宮大会優勝とするなら、「第2章」のセンバツVまであと4勝だ。