永瀬正敏の周辺でまた奇跡 2014年1館限定の「いきもののきろく」11年の時を経て全国上映

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2025年03月24日 07:35  日刊スポーツ

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日刊スポーツ

東日本大震災で被災した福島をテーマにした映画「いきもののきろく」で共演したミズモトカナコ(左)と主演の永瀬正敏(撮影・小沢裕)

<情報最前線:エンタメ 映画>



2014年(平26)3月に名古屋市のシネマスコーレ1館で限定公開された短編映画が、11年の時を経た今年、7日の東京・テアトル新宿を皮切りに全国で順次、公開にこぎ着けた。タイトルは「いきもののきろく」。撮影は同市内を流れる中川運河で13年に行われたが、作品からは11年3月に発生した東日本大震災後の被災地と人々、当時の空気がにじむ。原案とプロットを担当したのは、日本を代表する映画俳優の永瀬正敏(58)。永瀬と共演のミズモトカナコ(32)井上淳一監督(59)に思いを聞いた。【村上幸将】


■「場所に出会ってしまった」


13年4月、名古屋で全てが始まった。永瀬はシネマスコーレで行われた井上監督の長編デビュー作「戦争と一人の女」の舞台あいさつに主演俳優として立った際、当時の支配人の木全純治さんから「監督、やらない?」と打診を受けた。81年「泥の河」(小栗康平監督)の舞台で、当時は使われていなかった市内の中川運河を舞台とした短編映画を製作する企画だった。


永瀬は「出演は、いいです。井上監督でしたら」と監督は固辞し、井上監督を指名。すると2回目の舞台あいさつ後、劇場前に車が用意されており「有無を言わさず」ロケハンに連れて行かれた。回った中にあった、鉄くずの工場を見て「場所に出会ってしまった」と感じ、もう1つの顔・写真家としてカメラのシャッターを切った。


帰京する新幹線の車中などでプロット(あらすじ)を書き、舞台あいさつの2日後に井上監督に送った。「使い物にならない、散文をまとめたような私的なものを強引にお送りしたら、監督が大きなテーマにしてくださった」と振り返るが、同監督は「きちんとしたプロットができていて、しかも震災の匂いが濃厚に漂う。僕の仕事は原発事故を加えたこと」と強調した。


実は、永瀬は東日本大震災後、岩手、宮城、福島の被災3県を訪問していた。家族5人を失った岩手・山田町のタラ漁師を軸に描いた12年のドキュメンタリー映画「3.11後を生きる」を手がけた中田秀夫監督(63)が、同作をベースに短編映画「四苦八苦」の製作に動き、永瀬の元に出演オファーが届いた。


当初は「そんなこと(撮影)やっている場合じゃないだろうと思い、二の足を踏んでいた」という。それでも、中田監督が発生直後の11年7〜10月まで取材したことを鑑み「現地の方と信頼関係が取れており、思いがすごく、では…」と最終的には受けた。震災発生から半年後に臨んだ撮影では「3.11後を生きる」で描かれたタラ漁師を元にした漁師を演じた。


■被災地での永瀬の経験投影


「現場に立って言葉が出なかった」経験が、プロットの中に自然と投影されていった。「井上監督と出会い、作品をご一緒し、木全さんに背中を押されて場所(中川運河)に出会った。そうして書いた散文のようなものの、パーソナルな世界観の中にあった震災の匂いを、監督に受け取っていただいた」と振り返った。


プロットは、男がいかだを作る話だった。いかだに失った家族の写真を貼り付け、火を付けて流す姿は、灯籠流しを想起させる。被災3県を回る中で出会った老人の姿と、かけられた言葉が刻み込まれている。


「一生懸命、家を整理をされながら『がれき、がれきって言うけど、がれきじゃないんだ。思い出であるし、作ってきた生活の一部なんだ』と言う姿が何とも言えなかった。いかだを作る男は、自然と(脳内に)出てきました。がらくたを集めているけれど、思い出の一部でありモニュメントを作っているんだと。1人でも作ることができるなら、いかだだと考えました」


男はいかだを作る中で、名も知らぬ女が寄ってくると当初、無視する。女が寝袋を出してその場で寝ると、寝袋ごと外へ引きずり出す。女は元看護師で、非常ベルが鳴る中、防護服を着た男に「子供が産めなくなってもいいのか!!」と言われ、患者を置き去りにしたまま病院から連れ出された過去を悔いている。福島第1原発事故をエッセンスとして加えた、井上監督が作り上げたキャラクターだ。


■大学生のミズモトを抜てき


女が物語のカギになると考えた永瀬は、京都造形大(現京都芸術大)の学生だったミズモトを抜てき。映画学科長だった林海象監督が永瀬を主演に迎え、90人の学生と作った13年の映画「弥勒 MIROKU」での共演歴を買った。


「女役が決まらないと作品はできない。ふと浮かんだのが、ミズモトさん。かなり根性があり、もしかしたら作品の核の部分を分かってもらえるんじゃないかと、期待を込めた」


男と女は徐々に理解し合うと、互いの心の傷を埋め合うように共生していく。永瀬は「男は亡くなった家族への思いも強く、女を面倒くさいと思い、遠ざける。でも拒否しながらも、密な時間を過ごしていくうちに人本来の何かに気付き始める。機体(パソコンや携帯電話)越しではなく人肌の温かさが大事だと感じてもらえれば」と、SNS社会とも言われる現代に投げかける意義を強調した。


男女2人の物語を着想したルーツは、89年の主演映画「ミステリー・トレイン」(ジム・ジャームッシュ監督)で参加した海外の映画祭にある。映画製作者から売り込まれたものの成就しなかった、孤島で暮らすアダムとイブが実は日本人だったという企画がヒントになった。そこに3・11の記憶、感情が結び付き、13年の年末に名古屋で撮影した作品が、あたかも被災3県で撮ったかのように映る1本の映画として結実した。


■若松監督と井上監督に感謝


47分の短編単独での上映は当時、難しく14年3月にシネマスコーレで限定公開した。それから10年7カ月後の24年10月15日。東京・テアトル新宿で行われた、井上監督の師をしのぶ毎年恒例の「若松孝二監督命日上映」で上映され、好評を得て全国上映につながった。永瀬は「ロードショー公開された映画が数年後、リバイバル上映されることはあっても、ピンポイントで1館だけ上映したものが全国に広がる経験はない。天国の若松監督と井上監督に感謝」と喜びをかみしめた。


近年、永瀬の周辺では映画を巡る“奇跡”が続いている。14年に京都で撮影も、公開機会を逸した主演映画「二人ノ世界」(藤本啓太監督)が、コロナ禍で新作の公開延期が相次いだ20年7月に公開。24年9月には、97年にドイツのハンブルクでクランクイン前日に資金の問題で中止、頓挫も、再び企画が成立した「箱男」(石井岳龍監督)が、27年の時を経て公開した。


映画の神様が、ほほ笑んでいるのでは? と投げかけると、永瀬は静かに笑みを浮かべた。


「もっと振り向いてほしい…。でも、ぜいたく、言っちゃいけないですよね」


■永瀬への信頼


ミズモトは「こんなに長い時間を経て公開されることになると、当時は考えていなかった」と喜びをかみしめた。10年ぶりに見て「あの時のベストの演技をしていたし、当時の私だからできたお芝居をしていた」と照れ笑いを浮かべた。


ミズモト自身、撮影2カ月前の13年10月に被災した宮城・石巻市を訪問。「道路に水たまりがあり、建物の上にバスが乗り…写真も撮れなかった」体験があったので「変に芝居に取り込まなくても自然に演技に反映させていた」という。


映画はモノクロで、2人のセリフのやりとりを廃して、必要最低限のセリフを折々に字幕で見せる、無声映画的な作りが斬新だ。セリフのない芝居の経験はなく「台本で、2人が何を感じているかは分かった。でも2人芝居でセリフがなく、何をしたらいいか分からなかった」状況で、頼みは永瀬ただ1人だった。


男と女が結ばれるシーンもあったが「永瀬さんから自然と伝わってくるものを、本当の素で感じた部分と役がリンクした」という。その裏には揺るぎない永瀬への信頼があった。「学生だった私たちにも、プロと同じように接する姿に、人として素晴らしい方という印象があった。信頼関係があったからこそ、アイコンタクトだけで抵抗がなく、安心して委ねられた」。


7日の初日舞台あいさつの壇上に立った、ミズモトの目は輝いていた。「より、たくさんの人に感じてもらえるようになったのは映画として意義がある。自分の中の傷と照らし合わせ、一緒に共有できたら」と全国公開実現を喜んだ。

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