「前日まではあんなことする気も、吉本を辞める気もなかった」契約解消から1年、元プラス・マイナス岩橋が語る“暴露事件”後の日々

0

2025年03月29日 11:01  日刊SPA!

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

日刊SPA!

写真
―[インタビュー連載『エッジな人々』]―
 光り輝く表舞台から去ったからなのか、男は芸名を「シャドウ」に変えた――。お笑い界の“闇”を暴露し、自身の“病み”も赤裸々に打ち明ける。

 タレントとして復活し、さらに大きな野望を見据える、尖った半生を今明かす!

◆SNSの暴露をきっかけに消えた「上方漫才の宝」

 大阪の片田舎で、男は闘いを続けていた。

 漫才コンビ、プラス・マイナスのツッコミだったシャドウ岩橋こと岩橋良昌。年間舞台数600回を超えた実力派は、’23年に漫才史上で最も古い歴史を持つ上方漫才大賞を受賞。月収は200万円に上り、さらに輝く未来を掴み取ったはずだったが……。

’24年2月、SNSでの暴露をきっかけに所属していた吉本興業との契約を解消。同時にコンビも解散となり、上方漫才の宝は一瞬で泡と消えた。騒動から1年、強迫性障害を抱えながらの苦しい日々も、「吉本には頭を下げたくない気持ちで頑張っている」と語る男の“今”を聞いた。

──吉本興業と契約を解消してから1年、現在はどのような活動をされていますか?

岩橋:TikTokを中心としたSNSでの配信や案件の収入、お祭りの司会などの営業が主な収入源ですね。TikTokの振り込みって月1回なんですが、毎月振り込まれる日を楽しみに待つようになりました(笑)

◆先輩に気に入られなければテレビに出られない時代は終わった

──収入は吉本時代と比べると波がありますか?

岩橋:もちろん、吉本時代を超えるときもあれば下回るときもあります。

 車のローンなどの支払いのほか、吉本時代の名残で税金も大変でしたが、“絶対に吉本には頭を下げたくない”という意地で乗り越えてきました(笑)

 それに、周りの芸人も言わないだけで気になってると思うんですよ。「大企業吉本を辞めた芸人がこれからどうやって生計を立てていくのか」って。

──岩橋さんの行動に続く人が現れるかもしれませんね。

岩橋:時代を変えたいんです。大きな企業にいて、先輩にかわいがられないとテレビに出られない時代はもう終わってる。TikTokですぐに生配信できるこの時代に、理不尽なことに耐える必要はないんですよ。

◆騒動の前日まで“あんなこと”をする気はなかった

──昨年、SNS上で唐突に暴露を始めたのは驚きました。

岩橋:僕は小学校2年生のときから強迫性障害という持病があって……。

 理解されるのは難しいんですが、例えるなら自分の周りを人には見えない蚊が常に飛んでいて、気になってはたき落とす、するとまた出てきて、さらにそれをはたき落とす……。そんな状況を延々と繰り返しているような状態です。

 ひどいときは大群の蚊が現れて、自分ではどうにもならなくなる。数年に一度、それが大きな爆発を起こしてしまうんです。

──騒動時はまさにその状態。

岩橋:そう、あの前日までは韓国旅行を楽しんでいて、カジノで徹夜してしまった。それもよくなかった。寝不足は強迫性障害を悪化させてしまうんです。

 帰国して体を癒やそうとマッサージに行ったんですが、病気のせいで逆に疲れてしまって。「俺は普通にマッサージも受けられへんのか」と絶望して死にたくなったんです。

「どうせ死ぬなら」と思って溜め込んでいたものを一気に吐き出してやりました。騒動の前日まではあんなことする気も、吉本を辞める気もなかったんです。ただ、不思議なことに後悔はないですね。もう覚悟はできています。

◆卑劣なパワハラに「ひたすら耐えるしかなかった」

──暴露のなかには強烈なパワハラの告発もありました。

岩橋:暴露した制作会社の社長だけは今でも許せない。芸人が食べる料理をドッグフードと入れ替えて苦しむ姿を見て楽しんだり、激辛の粉を僕の舌に流し込んで笑ったり、パワハラの権化ですよ。

 周りの芸人は誰も止めず、ひたすら耐えないといけなくて。そういうあしき習慣をさらけ出して“時代を変えたい”と思って辞めたところもある。

──コンプライアンスが厳しい現代でも、まだこんなことがあるのかという声も多かったです。

岩橋:昔はもっとめちゃくちゃでしたけどね。

 番組でプロレスをさせられた芸人が1週間も意識が戻らなかったり、ロケの凍傷で芸人の指がなくなったり。昔も今も売れていない芸人に対する扱いってひどいんですよ。

──急に会社を辞めて周りは困惑したのではないでしょうか。

岩橋:ファンの人や相方に申し訳なかったのは確かです。

 ただ、あのあと相方も僕の悪口でフィーチャーされて、コンビ時代の収入に復活したと聞いたので安心しました。家を買って家族もいるのに路頭に迷われたら、それもまた精神的にきついので。

◆相方・兼光タカシと再び漫才をするなら還暦以降

──また相方の兼光タカシさんと漫才をしたいという思いはありますか?

岩橋:今はあまりないですね。ただ、普段誰かと話してて、面白いくだりになると、そこから漫才のネタを考えてしまう癖は抜けない。でも、相方とやるなら還暦以降とかかな(笑)

──漫才に対する愛情は変わっていない?

岩橋:好きなぶん、やっぱりしんどいんです。僕らは有名人じゃなくて、“実力があるから”人気番組やイベントに呼ばれていた。だからほかの有名人たちの2倍ウケて、やっと“同じぐらいの仕事ができた”と考えていたんです。

──ストイックですね。

岩橋:そこで選ばれ続けるために「もっとウケないとダメだ」と厳しくやりすぎてしまった。結果、コンビ関係は破綻していました。正直、解散間際はネタ合わせ以外、ほぼ口を利いていない状態でしたね。

◆「漫才をやり切った」と実感できたワケ

──過酷なプレッシャーのなかで漫才をやられていた。

岩橋:ただ、そこまでやったから上方漫才大賞を取れたとも思う。そこで箔がついて関西の漫才師として盤石になり、“師匠”になっていく。そんな時期やったと思うんですけど、申し訳ないことに僕はその生き方にあまり魅力を感じられなくて。

──もっと違う生き方があると思ってしまった?

岩橋:未来が見えてしまったというか。……やっぱりコンビって難しいんですよ。自分の人生を生きるのか、相方の人生を生きるのか、2人の妥協点を生きるのか、これが難しい。

 でも、大賞取る前にうちのおかんが「あんたが大賞取れたらいつ死んでもええわ」ってぽろっと言ってたんです。それでおかんを喜ばせられたし、一つの区切りとして漫才はやりきったなと思ってしまった。

◆「自分は普通の子じゃない」苦しんだ学生時代

──強迫性障害になった要因に心当たりはあるのでしょうか。

岩橋:実はウチの父親の家系にも母親の家系にも強迫性障害の人がいて。だから「あんたは強迫性障害のサラブレッドや」とか言われました(笑)。やっぱり遺伝が大きいかもしれません。

──病気への理解が進んでいない時代は苦労が多かったとか。

岩橋:小学校の頃は養護学級に行くかどうか検討されてましたね。授業中に奇声を上げちゃうんです。それでいじめられて、そのストレスで余計やめられなくなる。

 だから補助のために参観日でもないのに親が学校に来て、一緒に給食を食べてくれるんです。「ああ、自分は普通の子じゃないんだ」と気づきました。学生時代は苦しくて、何度も死にたいと思いましたね。

◆いつか父親として子どもたちを抱きしめたい

──そこで踏みとどまれたのはなぜでしょうか。

岩橋:19歳のときに「飛び降りたら楽になる」というギリギリのところまでいったんですけど、やっぱり憧れが捨てきれなかった。

 こんな自分でも芸人になれば輝かしい人生が送れるんじゃないか、と。あとは極端にビビりだったから(笑)

 今の僕は「強迫性障害の人の手助けをしたい」というのが一つのテーマなんです。僕らみたいな病気を持っててもこんなおもろく生きられるよ、って伝えられたらいい。

──病気の完治は難しい?

岩橋:病気とはうまく共存していくしかない。ただ、もう少しだけ楽に生きたいかな。

 離婚した妻との間に2人の娘がいますが、近づくと「この子たちを傷つけてしまうんじゃないか?」という強迫観念が思い浮かんでしまうんです。

 もう気軽に抱きしめさせてくれる年頃でもないんですが……、いつか父親として普通に抱きしめられたらという思いはありますね。

◆新たに挑戦してみたいことは「絵画」!?

──フリーになって新たな可能性が広がりましたが、挑戦してみたいことはありますか。

岩橋:過去に絵の個展を3回開催してるんですよ。忙しくてあまり時間がなかったんで、今度は絵をしっかり描いていきたい。

──前衛美術家の嶋本昭三さんに褒められたこともあるとか。

岩橋:そうです。絵を見せて、けなされると思ったら気に入られて「弟子になれ!」って言われたんです。そういった芸人以外の生き方も模索したいですね。

【Yoshimasa Iwahashi】
1978年、大阪府生まれ。’03年、漫才コンビ、プラスマイナスとしてデビュー。’21年、笑ラウドネスGP優勝、’23年、第58回上方漫才大賞・大賞受賞などお笑い賞レースでの輝かしい実績を持つ

撮影/宮下祐介 取材・文/南ハトバ

―[インタビュー連載『エッジな人々』]―

    ニュース設定