『連続テレビ小説 虎に翼 Part1 (1) (NHKドラマ・ガイド) 』NHK出版 訳もわからず書かされているのか、それとも意図的に書いているのか……。いずれにせよ、伊藤沙莉についての不名誉な批判記事を看過できないなと思った。
特別な義務感からではない。ただ反論の筆が自然と運ぶ。記事の中で問題視される伊藤沙莉の発言はむしろ自然なことであり、あのハスキーボイスは愛すべきものなのだから。
主に男性俳優の演技を独自視点で分析するコラムニスト・加賀谷健が、伊藤沙莉を不自然に批判するネット記事に対して反論を試みる。
◆伊藤沙莉をめぐる好感度
リソース、根拠、見識等々、あらゆる観点から見て不安要素でしかないのがネット情報というものだから、いちいち腹を立ててもバカらしいのはわかっている。それでもなお、これは看過できないなと思う不遜で不自然な批判記事を読んだ。
不名誉極まりない記事タイトルを明記するのは差し控えるが、そこに書かれていた主旨は、伊藤沙莉をめぐる好感度である。書き手は、いくつかの事例を紹介しながら、CM起用時のイメージの違いや伊藤の発言の是非を問う。
後者については、伊藤と共演歴がある俳優とのポッドキャスト上のやり取りである。俳優の演技を上手い下手で見ないでほしい。それは好みの問題でしかない。という発言らしいが(筆者は実際にリスナーではなかったので、書き手の文字起こしを信用する)、そうか、俳優のこんな素朴な主観が批判の対象になるものなのか……。
◆演技の上手い下手
好き嫌いで論じてしまうのは「逃げ」みたいな批判的声が紹介されているが、この書き手はどうやら自らの見識が揺らがず、誤読の余地がないように他者の批判的言説を頼りにしているらしい。
例にもれず、「○○関係者」などという無記名の有識者(?)による冗長なコメント文まで実に丁寧に引用している。百歩譲って、「好き嫌い」と明言してしまった伊藤の言葉はたしかに誤読される余地があるものだったかもしれない。
いやでも実際のところ演技の上手い下手は、誰にもわからない。いや、たしかに下手な演技というのはある。それは非常にわかりやすい。一方で上手い演技となると、映画を生業にしてきた筆者が、第一線の映画監督を相手に対話を重ねてきても、いつもお互い疑問符が残るくらい複雑なものだ。
◆好き嫌いにたどり着くのが自然なこと
乱暴な説明だが、演技は大きく演技らしい演技と演技らしくない演技に区分できる。前者は割と大げさなものからほどよく抑制されたものまで、わかりやすく感情を込めた演技。それは時に憑依型と呼ばれることも多い。
後者は日常の延長にある感情をベースにする演技。注意すべきなのは、あくまで延長であって、日常そのものの感情ではないこと。演技は嘘であることが大前提。日常の感覚に近い演技は時にナチュラルな演技だと誤解される。
でもナチュラルな演技という言い方自体が正確ではない。それは何もしていない素の状態であり、演技ではない。本来フィクショナルであるはずの演技を自然な状態に見せること。これが本当のナチュラルな演技である。
ともあれ、上述のようにあれこれ説明すればするほど、上手い演技が何なのかはよくわからなくなる。演技とはそんな簡単に上手い下手ではっきり語れるものじゃないんだよ。だから結局のところは、極言それって好き嫌いだよね。みたいな発言にたどり着くのがむしろ、自然なことである。
◆愛すべきハスキーボイス
もうひとつ看過できなかったのは、伊藤の声についての記述である。特徴的なハスキーボイスに対して、何とまぁ好き嫌いで判定し始めてしまうのだから呆れる。演技の好き嫌い発言は批判しておいて。
ここでも書き手自らの言明は避けて、広く一般の声を紹介するズルさに徹している。さすがに腹が立った。これはもういよいよ烈火のごとく怒らなければ(!)。
これだけは明言しておく。それは、世界でもっともチャーミングで愛すべきハスキーボイスなのだから、そこんとこよろしく、と。恥ずかしげもなくそれすら好き嫌いで簡単に片付けようとする人たちは、まだ脇役が多かった伊藤沙莉が、『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年)で、あのやわらかく、人懐こいざらざら声と片手に持ったビールグラスの発泡とが調和していた映画的瞬間をたぶん、知らないのだろう。
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
コラムニスト / アジア映画配給・宣伝プロデューサー / クラシック音楽監修「イケメン研究」をテーマにコラムを多数執筆。 CMや映画のクラシック音楽監修、 ドラマ脚本のプロットライター他、2025年からアジア映画配給と宣伝プロデュース。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業 X:@1895cu