デヴィッド・ボウイ、その死から約10年。死してなお人を惹きつける魅力とは

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2025年04月02日 09:11  日刊SPA!

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イギリスを代表するアーティスト、デヴィッド・ボウイ
 2016年1月10日、イギリスを代表するアーティスト、デヴィッド・ボウイが亡くなった。来年2026年は、ちょうど彼の死から10年の節目になる。では、彼は完全に過去の人になってしまったのだろうか。いや、そんなことはない。その死から10年、彼にまつわる書籍や映画はいまだに発表され続けている。
 2025年1月には、活動初期のボウイを映したドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ 幻想と素顔の狭間で』が公開された。また、2025年5月、6月には彼の遺作ミュージカル『LAZARUS』の日本版が上演される予定だ。主演を務める松岡充(SOPHIA)も、自身がロックを志したきっかけはデヴィッド・ボウイだったとコメントしている。

 死してなお、注目され続けるアーティスト、デヴィッド・ボウイ。一体、彼の何がこれほどにまでに人々を惹きつけるのか。その死から約10年、ここでは彼のキャリアおける功績とエンターテインメントに及ぼした多大なる影響について、改めて振り返っていく。

◆ビートルズに影響を受けた10代

 デヴィッド・ボウイ、本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月8日、ロンドンの南に位置する町ブリクストンで生まれた。父ヘイウッドと母マーガレット、そして、マーガレットの連れ子で10歳上の義兄テリーという家族構成だった。

 幼いデヴィッドの芸術的感性に影響を与えたのは、父ヘイウッドだった。芸能関係の仕事をしていた父は、時折不要になったレコードを職場から持ち帰っており、デヴィッドはその音楽に熱心に聞き入っていた。特に彼を魅了したのは、黒人歌手リトル・リチャードだった。代表曲の「のっぽのサリー」(1956年)は、エルヴィス・プレスリーにもカバーされており、ロックンロールというジャンルの形成に多大なる影響を及ぼした人物である。

 10代も後半になると、デヴィッドはバンドを組んで音楽活動に励むようになる。当時は、同年代のビートルズが、アイドル的な注目を受け始めた時期でもあり、デヴィッドも彼らの影響を受けた一人だった。

 しかし、デヴィッドのバンドの売り上げは芳しくなく、彼を待っていたのは長い下積みだった。ちなみに、彼の芸名「デヴィッド・ボウイ」が生まれたのも、この時期である。彼の本名「デヴィッド・ジョーンズ」は同時期に似た名前のアーティストがいたということから、「デヴィッド・ボウイ」という現在の芸名がつけられたのだった。

 そんなボウイの初めてのヒットは「スペース・オディティ」という一曲だった。この曲が発表されたのは1969年。アメリカでのアポロ11号打ち上げと月面着陸に世界が湧いていた時期である。宇宙空間を漂う宇宙飛行士の孤独を歌った本作は、ニュースやラジオで流されるようになり、次第にボウイの名が世に知られてくる。その結果、「スペース・オディティ」は、イギリスのシングルチャートで5位にまで昇りつめた。ボウイ初のヒット作である。

◆YMOをはじめとした80年代の日本人アーティストに与えた影響

 その後のボウイで印象的なのは、やはり「ジギー・スターダスト」の誕生である。1970年代前半、あろうことか彼は、「デヴィッド・ボウイ」という名を捨て、新たに「ジギー・スターダスト」という架空のロックスターを演じるようになったのだ。

 女性ファッション雑誌を参考に短く切った髪をオレンジ色に染めたボウイは、自らがゲイであることを公言して、新たなアーティスト像を打ち出していく。ボウイなのか、ジギーなのか、男なのか女なのか、そんな曖昧な世界観に人々は引き込まれていった。

 もちろん、ボウイ熱に浮かされたのは、日本人も例外ではない。フォーククルセダーズのメンバーの一人で、後にロックバンド、サディスティック・ミカバンドを結成することになる加藤和彦もボウイ・ブームの目撃者だった。このサディスティック・ミカバンドのドラマーとして知られる高橋幸宏は、後に80年代のテクノブームをけん引するグループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーになる。また、同じくYMOの坂本龍一も大島渚監督作品『戦場のメリークリスマス』(1983年)でボウイと共演し、ヒットを記録する。こうしたことからも、70年代のスターとしてのデヴィッド・ボウイ像は、日本の80年代カルチャーに少なからぬ影響を与えていると言える。

 YMOのみならず、テクノといえば欠かせないのがドイツの音楽グループの影響である。70年代後半、シンセサイザーなどの電子楽器が発達する中、ドイツではクラフトワークやノイ!といったグループが、こうした新技術を用いて次々と作品を発表していた。

 ボウイもこうした作品には耳を傾けており、新しい創作の可能性を模索していた。その結果、出来上がったのが、いわゆる「ベルリン三部作」である。これらの作品は、当時、アンビエントという新たなジャンルを確立しつつあった、ブライアン・イーノとの共演で制作された。中でも三部作の1作目『ロウ』(1977年)は、収録曲の半数が歌声の入っていないインストゥルメンタルの楽曲であり、強い実験性を帯びた作品だった。

 『ロウ』は、斬新な作風ではあったものの、それが故にレコード会社は商業的な成功は見込めないのではないかと危惧していた。しかし、そんな予想とは裏腹に、リスナーたちはその先進性を評価した。今では後に登場するポスト・パンクやニューウェーブといった新しいジャンルの先駆けだったと言われている。

◆ボウイと京都の知られざる関係

 ボウイのキャリアを語るうえで欠かすことのできない場所はいくつかある。その中でも、とりわけ重要だと思われるのが、先述のベルリン、そして、京都である。

 先述の通り、ベルリンといえば「ベルリン三部作」が有名である。では、京都はどうだろうか。京都にはかつてボウイがお忍びで訪れていたとか、一時期、実際に住んでいたとか、そういった噂がささやかれている。

 そんなボウイと京都の関係性の中でも印象的なのが、宝酒造の焼酎「純」のテレビCM (1980年)である。京都市の北部にある正伝寺の枯山水庭園で撮影されたCMは、ボウイが焼酎の入ったグラスを手に枯山水庭園に座り込んでいるだけという、CMとしてはいささか地味なものだった。

 だが、流石はデヴィッド・ボウイである。このCMによって宝酒造と焼酎「純」の国内における知名度は大幅に上がった。また、宝酒造はこれを機に「デヴィッド・ボウイも出演したテレビCM」という強力な口説き文句を得て、様々な海外アーティストの出演承諾を得るコマーシャル路線を確立していった。

◆80年代の躍進−メジャーシーンへの本格参入−

 80年代のボウイといえば、やはりアルバム『レッツ・ダンス』(1983年)の爆発的なヒットが有名である。これまでの作品も全く注目を受けていなかったわけではないが、やはり全英米でのトップ入り、そして、グラミー賞最優秀賞ノミネートは異例だった。どちらかといえばアングラ寄りだったボウイが、本格的にメジャーなスターたちの仲間入りを果たした瞬間でもある。

 しかしながら、単なる呑気なポップスターにならないところがボウイらしい。オーストラリアで撮影された「レッツ・ダンス」のMVは、資本主義社会の中で苦しむアボリジニたちを主人公にしており、暗に植民地主義を批判している。

◆マルチな顔を持つアーティストとして

 これまでの彼の生涯を眺めると、デヴィッド・ボウイがロックシンガーという地位を基盤にして、多くのことに挑戦してきたことがわかる。90年代には、デヴィッド・リンチ監督の映画『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間』(1992年)で重要な役どころ演じるなど、俳優としてのキャリアも充実してきた。

 そんな90年代、破竹の勢いで発達したのがインターネットだった。今でこそ、ネットは生活になくてはならない存在だが、この当時はまだまだ一般的にはマイナーなものだった。インターネットという新しいツールに新しいコミュニケーションの可能性を見出したのは、なにもマーク・ザッカーバーグをはじめとしたIT系の人間だけではなかった。ボウイもこの新しい可能性に興味を示した一人だった。

 ボウイはいち早く、楽曲のダウンロード販売をネット上で始めた。また、彼の公式サイトでは会員限定のチャットルームが開設され、ときにはボウイ自身も「セイラー(sailor)」のハンドルネームでファンたちの間に姿を現すこともあったという。アーティストがSNSで日々の日常を吐露し、サブスクリプションを介して楽曲を配信する現在から見ても、彼のこうした行動は時代を感じさせないものがある。まして、90年代にこれをやっていたのだから、間違いなく彼には先見の明があったはずだ。

◆デヴィッド・ボウイ引退説の真相

 2000年代に入っても、ボウイの勢いは衰え知らずだった。新たなアルバムを発表し、ツアーも実施する。50代も半ばに差し掛かろうとしているにもかかわらず、相変わらず活動的だった。

 ところが、この勢いは突然、中断する。2004年6月、ツアーの中、ドイツのハンブルクで緊急入院し、心臓の手術を受けることになったのだ。ツアーの残りの公演はキャンセルされたほか、これ以降、新たな作品発表やメディアでの露出も次第に減っていった。

 2010年代に入ると、事実上の活動休止状態となり、デヴィッド・ボウイ引退説まで囁かれるようになっていた。そんな中、2013年1月8日、66歳の誕生日、そういった類の噂話が全くの誤りであることがわかった。

◆病魔に蝕まれる中での復活

 2013年1月8日、デヴィッド・ボウイ、66歳の誕生日。突然、世界119か国のiTunesストアで、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」が発表された。また、同年3月8日には、新たなアルバム『ザ・ネクスト・デイ』が発表されることも明かされた。かくして、デヴィッド・ボウイは突然の復活を果たしたのである。

 その後のボウイは、ブロードウェイミュージカル『LAZARUS』の制作準備に取り掛かるなど、精力的に活動しているように見えた。2016年1月8日、69歳の誕生日には、新たなアルバム『★(ブラックスター)』を発表するなど、勢いは留まるところを知らないかと思われた。

 しかし、その裏でボウイは自らの余命が幾ばくも無いことを知っていた。進行性の肝臓がん。病のことを知っていたのは、彼の周囲のごく僅かな人間だけだった。2016年1月10日、69歳を迎えた誕生日から2日後、ボウイはその生涯に幕を閉じた。

◆デヴィッド・ボウイ亡き後の「デヴィッド・ボウイ」

 大雑把ではあるものの、こうしてデヴィッド・ボウイの生涯を振り返ってみると、彼が決して枠にとらわれることのなかった、変幻自在のアーティストだったことがわかる。ボウイは、常に新しい可能性を模索して、新たな表現を切り拓いてきた。

 死してなおボウイが注目され続ける理由。それは、こうした彼の貪欲さと、先見の明によるのではないだろうか。ニューウェーブであれ、インターネットであれ、時代を嗅ぎ分ける確実な嗅覚をボウイは備えていた。だからこそ、彼の作品は常に時代を先取りしていたのだろう。

 彼の作品は今後も再解釈を重ねて、人々に受容されるだろう。そのたびに彼の先見性が注目されることを願う。ボウイ亡き後の「ボウイ」は、聴き手の中にある。

 ひとまずは、2025年5月公演のミュージカル『LAZARUS』で、主演の松岡充の身体を借りて、再び“来日”するデヴィッド・ボウイに期待したい。

参考文献
野中モモ『デヴィッド・ボウイ : 変幻するカルト・スター 』(ちくま新書、2017年)
吉村栄一『評伝デヴィッド・ボウイ―日本に降り立った異星人』(ディスクユニオン、2017年)

〈文/礼門猿取〉

【礼門猿取】
現役大学生ライター。読みは、れいもん・さるとる

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